■おおらかだった読売クラブ

 タイトルと結びついて「青から赤」になった三菱と比較すると、読売クラブの「ヴェルディ物語」には、このクラブらしいおおらかさがある。

 三菱がJSLで初優勝を果たした1969年に「欧州型のプロクラブ」を目指して創立された読売クラブは、1972年に誕生1年目のJSL2部に昇格、1部との入れ替え戦に出てははね返されるという歴史を繰り返していたが、1978年、ついに入れ替え戦を突破、日本のトップリーグに躍り出る。

 ここまでは青いユニホームを着ていた読売だったが、翌1979年には緑に白と黒がはいったものを使う。しかしその年の後半、突然、まったく新しいユニホームが登場する。赤と青の縦じまの間に細い白を入れたユニホームでピッチに立ったのだ。そして数試合でそれにも飽きたのか、明るい緑の袖口と首回りに赤白青のトリコロールをあしらった軽快なユニホームが登場した。82年の後半には、水色と黒の縦じまに細い白を入れたものが主体となった。そう、後にヴェルディとなるチームが、後の川崎フロンターレとまったく同じものを着ていたのだ。

 現在はシーズンごとに使うユニホームがJリーグに登録され、気ままに変えることなどできない。しかしJSL時代はそんな小難しい規定などなく、どのチームも気軽にユニホームを変えた。やはり「青」で長い時代を過ごし、地味ながら堅実な戦いを見せていた日本鋼管(NKK)は、1986年にいきなりユベントスばりの「白黒縦じま」になり、戦いも派手になって2位に躍進した。

 読売クラブでは、日本代表のスターになりつつあった都並敏史と同僚の鈴木武一の2人が「ユニホームおたく」だった。彼ら2人でブラジルなど世界のクラブのユニホームを参考に勝手に発注し、納品されたら次の試合でさっそく着用するといった具合だった。水色・黒・白の縦じまはブラジルのグレミオのコピーだったし、明るい緑はフランスのサンテチエンヌをそっくりまねたものだった。

 まるで忙しい「お色直し」のように次々とユニホームを変えていた読売クラブだったが、選手たちが気に入ったのが「サンテチエンヌ型」だったようで、83年には明るい緑で通し、念願のJSL初優勝を果たす。そして以後は「緑」の道を踏み外すことはなかった。

ユニホームはチームのイメージを変える(戸塚哲也、大友正人、都並敏史、上島康夫の読売若手4人を並べた1981年の『サッカー・マガジン』表紙。

 日本のサッカーは、いまでこそ、カラフルなユニホームが咲き乱れるようになったが、JSL時代のある時期までは「青」のチームが圧倒的に多かった。そのころ、日本のサッカーがパブロ・ピカソのように鬱々(うつうつ)としていたわけではない。しかし未来の飛躍に向け、静かに努力を重ねていた時代であったのは間違いない。JSL時代を、私は「日本サッカーの青の時代」と呼んでみたい。

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