敏腕代理人が語る日本人選手「世界での現在地」(2)「稲本潤一、世紀の移籍」のウラ・後編の画像
フランクフルトなど数カ国を渡り歩いた稲本。欧州のスタート地点がイタリアだったならば、まったく違う道を歩んだかもしれない 写真:アフロ
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 日本からは現在、多くの選手が世界へと飛び出している。時代の流れとともに、その状況は刻々と変化していっている。現在の日本人選手は、世界でどんな立ち位置にあるのか? 稲本潤一と浅野拓磨をともにアーセナルへと、数多くの選手をビッグクラブを含む欧州へと送り出してきた代理人の株式会社ジェブエンターテイメントの田邊伸明氏に、話を聞いた。

■稲本にほれ込んだイタリアの智将

 2001年、田邊氏が代理人を務める稲本潤一(当時、ガンバ大阪。現SC相模原)の下に、欧州の名門アーセナルから獲得のオファーが届いた。だが、実は稲本には、もう一つの選択肢があった。

「アーセナルの話と並行して、欧州のクラブを探していました。その時には、(イタリアの)キエーヴォ・ヴェローナからもオファーがあったんですよ。オファーが2つあってどうしようかといろいろ考えました。キエーヴォは最初から買い取りを望みました。当時、セリエBから初昇格して、セリエAでのシーズンを前にした時点でのことです。アーセナルはレンタルでという話でしたが、恥ずかしながらローンフィー(レンタル料)というのが海外でもあるんだと、初めて知った頃のことです」

 当時のキエーヴォは、新監督の下で1年でセリエA昇格をつかんでいた。指揮を執っていたのは、ルイジ・デルネーリ。地方の小クラブながら、昇格後にはセリエAで3シーズン連続の1ケタ順位へと導き、その躍進ぶりは「ミラクル・キエーヴォ」と称えられた。

 稲本獲得に執着したのが、誰あろう、そのデルネーリ監督だったという。

「監督が、稲本のことをメッチャ好きだと言っていました。その監督からは、その後も数年にわたって、あの手この手で誘われたんですよ。稲本にとってはすごくいい監督だったわけですが、残念ながら一度もお会いすることはありませんでした。縁がなかったんですね」

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