サッカー選手の“黄金の鍵”「パーソナリティー」(2)「中田英寿、長谷部誠、本田圭佑…日本が変わった瞬間」の画像
ドイツW杯での中田英寿(2006年6月22日)写真:ロイター/アフロ
全ての写真を見る

真摯にサッカーに取り組む指導者にとって、忘れてはならないことがある。それは本当に強いチーム作りのために欠かせないもの。それを獲得することが、日本サッカーの究極の目標であるといってもいいのかもしれない。

※前編はこちらより

■トルシエ監督のなしとげた重要な仕事

「パーソナリティー」という表現は使わなかったが、1998年から2002年まで日本代表監督を務めたフィリップ・トルシエさんの指導も、まったく同じだった。彼の指導の最大のポイントは、「フラット3」などの戦術ではなく、世界と伍して戦うことのできる強いメンタリティーを育てることだった。だからこそ、彼は、高い技術をもっているだけでなく精神的に発展する時期にあった若い選手たちに期待し、彼らを核としたチームづくりで2002年ワールドカップへの準備を進めたのだ。

 激しい言葉での叱咤、ときに「非人間的」と言われそうな常軌を逸した扱い、過酷な環境での試合など、トルシエさんはありとあらゆる機会を使って選手たちに刺激を与え、成長をうながした。なかでも重要な意味があったのは、1999年はじめ、この年4月末からのU―20ワールドカップ(ナイジェリア)を前にU―20日本代表を連れていった西アフリカのブルキナファソ遠征だった。

 代表チームの遠征といえば選手の人数を上回るさまざまなスタッフが同行し、選手たちに国内にいるのと変わりない環境を用意して最高の力を出させようとするのが常識になってきたこのころ、トルシエさんはスタッフを最少人数に抑え、食事もすべて現地で出されるものにした。ブルキナファソの国内での移動には、飛行機や冷房の効いた最新の大型バスではなく、旧式のバスで、もうもうと砂ぼこりの立つ道を何時間も走らせた。ホテルも冷房などなく、3分間使えば水になってしまうシャワーなど、日本で快適な生活に慣れきった選手たちにとっては悪夢のような環境だった。

「何でも便利な日本の環境を当たり前と思ってはならない」。口で何万回話しても実感できない真実を、トルシエさんは日本とは正反対のような国に連れていって理解させたのだ。

 トルシエさんはこの国では大変な人気者だったから、選手たちを連れて大統領や「皇帝」と呼ばれる人に面会にも行った。

「ユース代表ではあっても、ここでは、きみたちは日本という国を代表している。ひとつの国を代表する者としての態度や行動をとってほしい」。選手たちにそう求めた。

 堅苦しいところだけでなく、ホテル地下のディスコに連れていった。そして選手たちに踊れと強要した。最初は恥ずかしそうに踊っていた選手たちだったが、「もっと元気に踊れ」とトルシエさんが声をかけると、みんな自分なりの踊りでめちゃくちゃに体を動かすようになり、やがて生き生きとした笑顔になった。

 日本代表選手たちが世界の舞台で「パーソナリティー」を発揮するようになったのは、2002年ワールドカップからではなかっただろうか。もちろん、それまでにも、パーソナリティーをもった選手は存在した。1960年代から1970年代にかけて日本代表のエースストライカーだった釜本邦茂、1990年代に日本代表の看板を背負ったカズ(三浦知良)、そして1998年ワールドカップ後にイタリアに渡り、セリエAのスターとなった中田英寿……。ただ、彼らは孤立していた。

 だが2002年ワールドカップでは、中田英寿や多くの試合でキャプテンを務めた宮本恒靖だけでなく、多くの選手がそれぞれの「パーソナリティー」を発揮し、堂々と世界と渡り合った。小野伸二、戸田和幸、中田浩二、稲本潤一ら、数多くのパーソナリティーが切磋琢磨(せっさたくま)した結果が、ワールドカップでの初勝利であり、ベスト16だった。この面においては、監督としてのトルシエさんの仕事はとっくに終わっていたと言ってよい。

PHOTO GALLERY 全ての写真を見る
  1. 1
  2. 2