97年日韓戦「日本を救った男」呂比須ワグナー独占インタビュー(1)「帰化して16日後の韓国戦は“オンガエシ”だった」の画像
呂比須ワグナー 写真/サッカー批評編集部

3月25日に開催される日韓戦。最も近いライバルとして激闘を重ねてきた日本と韓国だが、その歴史の中でも名勝負として記憶される試合がある。97年のフランスW杯アジア地区最終予選B組、日本と韓国がホーム&アウェーで戦った2試合だ。この重要なゲームに出場し、永遠に記憶されるゴールを決めたのが背番号12・呂比須ワグナー。現在、ブラジルのクラブで監督を務める呂比須が、『サッカー批評Web』のインタビューに答えた。(取材/文・藤原清美)

■呂比須ワグナー ろぺす・わぐなー■
1969年1月29日、ブラジル・サンパウロ州フランカで8人兄弟の末っ子として生まれる。86年、17歳でサンパウロFCとプロ契約。87年にオスカーとともに日産自動車サッカー部(のちの横浜F・マリノス)に移籍。90年、日立(のちの柏レイソル)に移籍。95年、JFLの本田技研工業に移籍し、95年、96年にJFLの得点王。97年にベルマーレ平塚に移籍。同年9月に帰化して日本国籍を取得。日本代表としてアジア最終予選、98年のフランスW杯に出場する。その後、名古屋グランパスエイト、FC東京アビスパ福岡を経て、2002年に現役を引退。指導者の道に入り、ブラジルでクラブチームの監督を歴任し、2017年にアルビレックス新潟の監督。その後、再びブラジルでサッカー指導にあたる。現在はヴィラ・ノーヴァの監督。

■選手としてプレーを続け、完璧に適応していた

——まず、あなたが日本に帰化することを決断した、最大の動機は何だったのでしょうか。

「僕は日本に行ってから、日本の文化の中に、すごく自分のアイデンティティを感じていたんだ。長年日本に住み、選手としてプレーを続け、完璧に適応していたから。

 それで、1992年に僕の息子イーゴルが生まれた時、息子を抱いて、すごく感動してね。その時、彼に語りかけていた。“君は日本人だよ”って。子供の登録のことなど、法律は知らなかったけど、“日本で生まれたんだから”と。

 それなら、父親である僕も日本人になって、今後の人生を通して、日本にいるのも良いかもしれないと考えた。ともかく、日本がとても好きだったんだ。日本語も分かるようになっていたし、習慣にも馴染んでいた。日本と一体感を持っていたんだ。

 そういうわけで、帰化について初めて話が出たのも、自分がそれを決断したのも、息子が生まれた時だった。

 それに、当時の日立のチームメイト達にも帰化を勧められたんだ。そうすれば、僕が使っている外国人枠も空けられる。チームをもっと強くするためにね」

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