97年日韓戦「日本を救った男」呂比須ワグナー独占インタビュー(4)W杯予選の最中に最愛の母が死去「私の息子、一緒にフランスに行きましょう」の画像
「ソウル決戦」で2点目のゴールを決めた呂比須ワグナー(1997年11月1日)写真:AP/アフロ
言葉を詰まらせながら母について語る呂比須

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3月25日に開催される日韓戦。最も近いライバルとして激闘を重ねてきた日本と韓国だが、その歴史の中でも名勝負として記憶される試合がある。97年のフランスW杯アジア地区最終予選B組、日本と韓国がホーム&アウェーで戦った2試合だ。この重要なゲームに出場し、永遠に記憶されるゴールを決めたのが背番号12・呂比須ワグナー。現在、ブラジルのクラブで監督を務める呂比須が、『サッカー批評Web』のインタビューに答えた。(取材/文・藤原清美)

呂比須ワグナー ろぺす・わぐなー
1969年1月29日、ブラジル・サンパウロ州フランカで8人兄弟の末っ子として生まれる。86年、17歳でサンパウロFCとプロ契約。87年にオスカーとともに日産自動車サッカー部(のちの横浜F・マリノス)に移籍。90年、日立(のちの柏レイソル)に移籍。95年、JFLの本田技研工業に移籍し、95年、96年にJFLの得点王。97年にベルマーレ平塚に移籍。同年9月に帰化して日本国籍を取得。日本代表としてアジア最終予選、98年のフランスW杯に出場する。その後、名古屋グランパスエイト、FC東京アビスパ福岡を経て、2002年に現役を引退。指導者の道に入り、ブラジルでクラブチームの監督を歴任し、2017年にアルビレックス新潟の監督。その後、再びブラジルでサッカー指導にあたる。現在はヴィラ・ノーヴァの監督。

■試合で喧嘩が起こることはわかっていた

——日本代表としてプレーする前にも、多分すでに、特にスポーツやサッカーの分野に存在する、日本と韓国の間のライバル意識というのを、知っていたと思います。その後、代表でプレーするようになって、この両国のライバル意識の印象は変わりましたか?

「僕は柏レイソルでプレーしていたんだけど、レイソルは韓国と、すごく近い関係にあったんだ。僕らは4回も、ソウルでプレシーズン合宿をしたほどだから。

 で、合宿中にあちらのクラブと親善試合をするんだけど、それが熱くなって、火花が散ってね。だから、あの頃から、韓国に行く時には、試合で喧嘩が起こることは分かっていた(笑)。クラブの間でも、そういうライバル意識があったんだ。韓国人にも、日本人にもね。

 そういう中で、彼らの特徴にも慣れていた。韓国人はすごくハードにマークし、すごく強く当たってくる。だから、こちらもしっかりしていなければならなかった。ケガしないように。

 ブラジルでも、アルゼンチンとのライバル意識には、すごく近いものがあったしね。

 だけど、いざ代表に入った時には、その意識の強さに恐怖を感じたよ。なんてことだ。クラブよりも、もっとずっと強い!クラブのサポーターだけじゃなくて、国中を巻き込むんだから。

 だから、ソウルで勝つには、あのライバル意識を乗り越えないといけない。あのプレッシャーを上回らないといけない。そして、ともかく結果を出すことだ。良いプレーをするかどうかよりも、あの試合では、勝つことが重要だった。

 思うに、今回行われる親善試合でも、日本人選手達は同じように考えているはずだよ。どんな勝ち方をするかは重要じゃない。どんな形であれ、勝たなきゃいけないってね(笑)」

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