後藤健生の「蹴球放浪記」連載第53回「バスの左側って、どっち?」の巻の画像
UAEラウンドのADカード 提供:後藤健生
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事件は帰国便の経由地であるモスクワで起きた。突然、日本人たちに対して長身で金髪のロシア人女性が怒りだしたのだ。94年W杯アメリカ大会予選のUAEラウンドの応援のために、日本サッカー狂会(Wikipediaによると、日本最古の日本代表サポーター組織)が組んだツアーでの、震えあがる出来事だった。

■エアロフロートの座席に座っていたのは?

 1994年のアメリカ・ワールドカップ出場を目指すアジア一次予選のF組。事実上、前回イタリア・ワールドカップに出場したアラブ首長国連邦(UAE)と日本の一騎討ちでした。一次予選はダブル・セントラル方式で、まず日本で第1ラウンドが行われ、続いてUAEで第2ラウンドが行われました。1993年春のことです。

 日本のサッカー関係者やサポーターの多くにとって、中東訪問はこの時が初めてでした。「お祈りの時間になったら、応援も中断しなければいけない」などといったフェイク情報も飛び交っていました。

 UAEラウンドはドバイで行われましたが、UAE対日本の最終戦だけは砂漠のオアシス都市アルアインが会場でした。僕たちのバスはドバイからアルアインに向けて砂漠の中の道路を一直線に進みます。ところが、しばらくすると、その韓国製のバスのエンジンが突然発火。僕たちは砂漠の一角の路肩に座り込んで、代わりのバスが到着するのを待ちました。

 アルアインで観光をするために時間に余裕を持って出発していたので、19時15分開始の試合には十分に間に合いました。

 試合は、終盤になって疲労で動きが落ちたところを突かれて82分に先制されましたが、84分に相手のクリアを拾った沢登正朗がミドルシュートを決めて日本は1対1で引き分け、無事に最終予選進出が決まりました。

 狂会ツアーは試合を見届けるとすぐにドバイに戻り、その日の深夜便でモスクワに向かいました。

 今では中東へはエミレーツ航空やエティハド航空、カタール航空などの直行便が毎日何便も飛んでいますが、当時は直行便などはなく、この時の「日本サッカー狂会応援ツアー」はアエロフロート航空を利用したのです。モスクワ経由です。

 モスクワでの乗り継ぎについては「蹴球放浪記」でも前に取り上げましたが(第21回「モスクワ名物。収容所ホテル」の巻)、いつも事件が起こります。この時も帰国便で大変なことが次々に起こりました。

 当時は国際線に乗るときには「リコンファーム」という作業が必要でした。航空会社に連絡して搭乗の再確認をしないと予約が取り消されてしまうのです。電話でもいいのですが、なにしろ相手はアエロフロートです。念のためにドバイ市内の代理店に行ってみました。すると担当者は「あんなぁ、この便はな、飛行機が着いてみんことには空席があるかどうか分からヘんのや。リコンファームなんかでけへん」と言うのです。

 この便はタイのバンコクを出発して、ドバイ経由でモスクワに向かう便でした。バンコクからどれくらいの乗客が乗ってくるか、着いてみないと分からないというのです!

 結局、「エコノミーの席は足りないので何人かはファーストクラスで」ということになったので、ラッキーなことにツアーのうちの何人かはファーストクラスに乗ってモスクワに向かうことができました。

 ちなみに、エコノミークラスでは冷蔵庫やらテレビやらが座席に座っていました。バンコクで電化製品を買ったロシア人たちが、それをキャビン内に持ち込んでいるのです。いやはや、滅茶苦茶ですわいな。

 ドバイを午前2時20分に出発した便は朝の7時35分にモスクワに到着しました。東京行きの出発は19時20分発ですが、その間はモスクワ観光が付いています。1991年12月にソ連が崩壊した直後で、ボリス・エリツィン大統領の下、ロシア連邦が混乱を極めていた時代です。

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