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文と写真・田島麻美

 

 爽快な5月晴れの朝、新型コロナウイルスのワクチン接種に行ってきた。
 4月末から規制が緩和され、徐々に経済活動が平常化しつつあるイタリア。ワクチン接種が進むにつれ医療機関の状況が劇的に改善する一方で、新規感染者はまだまだ多く、いわゆる「普通の日常生活」を維持していくためにワクチン接種が不可欠になってきている。イタリアでは今日までに人口の約32%、80歳以上の高齢者に限っては約90%が少なくとも1回のワクチン接種を終えており、ローマを含むラツィオ州では住民の約47%が少なくとも1回のワクチンを接種した(5月18日現在)。

 
 5月に入ってからは50代以下の一般市民のワクチン接種が加速してきている。この背景には、「もう二度とロックダウンはできない」という切羽詰まった危機感があると思う。今年の夏もコロナで経済活動が止まるような事態にでもなれば、イタリアは文字通り「回復不可能」になってしまう。国内の商業・観光業をなんとしても再開しなければ、という市民の強い決意がワクチン接種を促進しているように感じる。



 
 一般市民のワクチンの予約は生まれ年によって2年ずつに分けられ、州内の在庫量に準じて徐々に年代を下げながら予約するシステムになっている。接種を希望する人は、自分の生まれ年の予約OKの告知が出ると、インターネットの予約サイト、州保健局の専用アプリ、専用電話のいずれかを利用して予約する。予約方法は州ごとに異なり、ロンバルディア州などでは郵便局からも予約できるシステムがあるそうだ。希望者はワクチン接種から証明書の発行まで全て無料で受けることができる。
 私の生まれ年の予約がスタートしたのは5月上旬だったが、オンラインのチケット予約に慣れている私は自室のパソコンからトライすることにした。回線が大混雑するだろうという予想に反し、運よくスムーズに予約が取れた。しかも1回目の接種は4日後。会場は家から近いEUR地区の巨大接種センターで、4タイプのワクチンの中からファイザーを選んだ(その後すぐファイザーのワクチンが在庫をつき、現在はアストラゼネカかジョンソン&ジョンソンの2種類になっている。ワクチンの供給状況、接種会場の状況は州のサイトの一覧表で随時更新情報が確認できる)。

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「La Nuvola (雲)」の愛称で知られるコンベンションセンターを利用して作られた巨大なワクチン接種センター(通称Hub)。ローマ市内のワクチン接種会場は病院など約135ヶ所、催事場やショッピングセンターを利用した21の巨大Hubが各居住区に設置され、接種場所は日々増え続けている

 

 新型コロナのワクチン接種に関しては、事前に可能な限りの文献やデータに目を通し、自分なりに納得してから決めようと考えていた。このワクチンが未知のものであり、接種することによって5年後、10年後の自分の体にどんな影響が出るのか全くわからない、ということをよく理解した上で、副反応や自分の既往症なども思い起こしながら、一生懸命考えた。既に接種を終えた友人・知人、これから予約する友達などにも相談し、できるだけ多くの判断材料を集めたつもりだ。

 自分の予約順が迫ってきた頃、「やめようかな」と一瞬考えた。だが、いよいよその日が来てみると、「やっぱり打とう」と、意外とあっさり決断している自分がいた。私がヒアリングしたイタリア人の全員が「できることなら打ちたくない」と言っていたように、私自身もできれば打ちたくないと思っていた。けれど、イタリアの現状と去年からのコロナ禍による被害を考えると、もはや選択の余地は無いように思えてきた。万が一のことがあったとしても、私はもう十分自分の人生を謳歌したし、心を残す子どももいない。5年後10年後の自分の健康より、2ヶ月先のイタリア社会と生活を安定させることを優先し、「ワクチン打つぞ!」と決意するに至った。 



 接種前夜、大好物のイノシシのシチューをコトコト煮込みながら、「遺書は書いておくべきだろうか?」と思いはじめた。連れ合いは大げさだと笑い飛ばしたが、一度思い浮かぶとなかなか頭を離れない。そもそもワクチンは体に入れてみるまでどんな反応が出るかわからず、副反応の出方も人それぞれ。既往症でかつて生死の境を彷徨った経験がある私にとって、それは笑い事ではない。結局遺書は書かなかったけれど、それくらい真剣に考えた。せめて明日の晩、この大好物のイノシシを食べられますように、と祈りながら。

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最後の食事にならないことを祈りつつ大好物の猪肉の煮込みを作る。一晩かけて下ごしらえし、しっかり出汁をとった。この後、赤ワインを加えてじっくり煮込んでいく

 

 当日の朝はお天気の効果もあって、昨夜まで悶々と悩んでいたのが嘘のような爽やかな気分だった。ええい、もうなるようになれ!と、吹っ切れた気分で巨大接種会場に向かった。


 会場は、「ここは本当にイタリアなのか?」と驚くくらいシステマチックに運営されていた。ワクチン接種希望者は、予約コードと問診に必要なアンケート用紙、保険証、身分証明書だけを携え、導線に従って行けばいい。要所要所に係員がいて、こちらが質問する前に「次のポイントでは〇〇をチェックしますので用意しておいて下さい」と指示してくれる。これほど手際良く、しかもプロフェッショナルな対応をされたのは20年以上に及ぶイタリア暮らしで初めてのことだ。
 受付が済むと、後は全てデジタル掲示板で自分のコード番号を見ながら進んでいく。まず医師の問診があり、既往症に関する私の不安や接種後の副反応、万が一の対応などについて一つ一つ丁寧に答えてくれて安心した。恐らく医師・看護師のボランティアだろう会場のスタッフは、みんな若くて一生懸命で、なんだかほろっとさせられる。

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接種センター内は全てデジタル化され、人と接触をせずにスムーズに運営されるようになっている

 

 接種の順番を待つ間、隣で今まさに注射されようとしている筋肉隆々のおっさんが、「痛くない? 気分が悪くなったらどうしたらいい? 俺、ガタイがいいから倒れたら支えられないだろう?」と泣き言を言い始めた。おっさんの半分くらいしかないスリム体型の若い金髪のお姉ちゃん看護師が、「大丈夫ですよシニョーレ。ほら、隣に広い会場があるでしょ? あのパーテーションの裏に緊急救命室があります。若い男性の医師も看護師もこの会場にはたくさんいるから倒れそうになっても問題ありません。何かあってもすぐに対応できますよ」と落ち着かせているのを見聞きして、思わず頬が緩んだ。

 ついに私の番がやってきた。数秒前まで隣のおっさんを笑っていた私だが、いざ自分の番になってみるとやはり不安が湧き上がる。気がつけば、おっさんと同じ「痛いのかな?」という言葉を口にしていた。お姉ちゃん看護師は耳にいくつもぶら下げた金色のピアスを揺らして笑いながら、「ノー、シニョーラ。気づかないうちに終わってますよ」と言った。準備をする間、不安を紛らすためにいろいろ質問した。1日に何人くらい接種するのか。センターは何時まで開いているの? みんな毎日立ちっぱなしで大変ね、等々。お姉ちゃんは嫌な顔一つせず、「毎日2500人から2700人くらい接種してますよ。平日も週末も、朝から予約でいっぱい。夜は遅い時は10時くらいまで働いてるかしら?」と明るく答えてくれた。多分、彼女は毎日朝から晩まで、私やおっさんがしたような質問に答えているのだろう。患者の不安を取り除こうと、自然体であっけらかんとおしゃべりに付き合ってくれるお姉ちゃん看護師のおかげで緊張感も払拭された。

 ワクチン接種はお姉ちゃんの言葉どおり、あっという間に終わった。針が刺さったのにも気づかず、薬が入る瞬間「あれ?ちょっと痛いかも?」と感じた時には終わっていた。絆創膏を貼ってもらって接種後の待機室へ移動。友達とチャットしている間に15分はこともなく過ぎ、掲示板に自分の番号が出たら窓口で接種証明書と次回用のアンケート用紙をもらって終了。入場から退場まで約40分という素早さで、ワクチン接種はあっという間に終わった。


 

 その夜、心配していた副反応はほとんどなかった。先にアストラゼネカのワクチンを打った連れ合いは、接種翌日38.5℃の熱を出したが、私は上腕部の筋肉痛以外なにもなし。ファイザーのワクチンは2回目の接種後の方が副反応が強く出るそうだが、とにかく最初のワクチンは無事に終わった。トロトロに煮込んだ柔らかな猪肉を頬張りつつ、今生きていることに感謝した。

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広々とした会場内はパーテーションで仕切られ、人と接触せずに受付からワクチン接種、待機、終了証明書の発行まで最短の滞在時間で完了できるように設計されている