文と写真・下川裕治
■路線バスの運賃問題〈後編〉
宮古島の路線バスをほぼ乗りつぶした。そこで気になったのがバスの運賃だった。ほぼ同じ距離を走っているのに、運賃に3倍近い差があった。
宮古島のバスは降りるときに運賃を払う。主な乗客は高校生と老人である。皆、毎日、同じ区間を乗ることが多い。乗客は運賃を覚えているから、それを運転手に手渡すだけで終わる。
そもそも乗客数が少ない。通学時にはやや増えるが、昼間の時間帯はひとりかふたりである。どこで乗ったかを運転手は簡単に覚えることができる。
宮古島のバスはバス停で停まらない。徐行もしない。少し手前から、乗客がいないことがわかると素通りしてしまう。運転手は停車したバス停を覚えればいい。ひとつの路線で停まるのは5回ぐらいではないかと思う。
しかし僕らは面倒な乗客だった。平良港結節地点という、平良港前のバス停から乗ることが多かった。そしてぐるりと一周して平良市街に戻ってきて降りる。
運転手の横に立つ。運賃の投入口はガムテープでふさがれているから、運転手から伝えられる運賃を払うことになる。運転手は僕らが乗った場所はわかっている。そして脇に挟んであった運賃表をじっと眺める。だいぶかかる。こういう乗り方に対する運賃設定がないのではないか……そんな予感が脳裡をかすめた頃、運賃を告げられる。
しかしその運賃がかなり違うのだ。
頭のなかには原稿のことがあった。運賃をどう書いたらいいのだろうか。読者のなかには、運賃を確認する人がいるかもしれない。
いろいろ考えてみた。運転手は誰も誠実そうだったから、多めの運賃を口にすることはなさそうだ。

たとえば新里宮国線。地図を見ながら考察してほしい。
このバスは平良港結節地点を出発し、空港ターミナル前に停まり、新里や宮国方面を一周し、再び空港ターミナル前に戻り、平良港結節地点に向かう。
運転手が手にした運賃表には、空港ターミナル前から平良港結節地点まで、直行するときの運賃があるはずだ。それがおそらく240円だろう。
しかし僕らは、空港ターミナル前から平良港結節地点まで乗ったが、その間に、新里や宮国をまわっている。所要時間は40分ぐらいだろうか。その運賃が表示されているのかいないのか……。空港ターミナル前から平良港結節地点まで行くのに、そんな乗り方をする人は基本的にいないのだ。
新里宮国線の運転手は、それがわかっていたから、直行する運賃を伝えてくれたのだろうか。
しかしほかの路線の運転手は、700円台、900円台という金額を口にした。端数もちゃんとあるから、
「まあ、900円ぐらいにしておくか」
といった金額ではない。沖縄の人は、こういう面では本土以上に律儀な面がある。いい加減に映るのは、もともとの構造ということが多い。
そう考えると、僕らのような乗り方に対しても運賃が表示されていることになる。つまり新里宮国線の運転手は、
「ぐるっとまわる運賃はあるけど、空港ターミナル前から平良港結節地点まで直行したことにしてあげようか」
と考えたのかもしれない。
つまりおまけである。
この悩みを、宮古島に住む知人にぶつけてみた。すると彼はこういうのだった。
「どうしてそういうことを考えるわけ? 宮古の人は誰もそんなこと考えんよー。運転手が口にした運賃が運賃さ。それにバス会社に訊くのはやめたほうがいいと思う。だぶん、会社の人が混乱して、また違う運賃を伝えられるきがするなぁ」
沖縄に出合ってしまった。
そういうことなのだ。島の人々の間にある妙な信頼感。それが間違った運賃であっても、運転手が口にした運賃を払う。そこに疑問はなにひとつ生まれない。
沖縄本島の日本化とは、つまりそういう信頼関係が崩れていったということなのかもしれなかった。なにかがひとつ見えてきたような気がした。
宮古島のサトウキビ畑を吹く穏やかな風にあえて抗うこともないのだろう。

みやこ下地島空港のチェックインフロアー。バリ島の空港をイメージしてつくられたとか

(次回に続きます)

アジアが潜む沖縄そば、脊髄反射のようにカチャーシーを踊る人々、マイペースなおばぁ、突っ込みどころ満載の看板…日本なのになんだかゆるい沖縄には、いつも甘い香りの風が吹く。基地問題で揺れ、LCCが離島にも就航した沖縄。島の空気をいっぱいに吸い込む週末旅へ。
