月日が経つのは早いものでして。
ウルグアイに行く準備やら何やらで、私がバタバタしていたのは、季節的にはちょうど今頃だが、もう5年も前のことになる(すみません、古い話で……)。
いや、違う。
よくよく思い返してみると、本当にバタバタし始めるのは出発直前だから、もうちょっとあとのことで、5年前の今頃は、「ヤキモキしていた」といったところだろうか。

 

2015年7月、私は、『世界でもっとも貧しい大統領 ホセ・ムヒカの言葉』を上梓した。
その何か月か前、「ムヒカの本を書きたい!」と私が言い始めたとき、「誰? それ」というのが、大方の反応だった。

2012年にリオで開催された国連会議での衝撃的なスピーチをきっかけに、世界中で広く知られるようになっていたとはいえ、その頃、ムヒカの日本での知名度は、まだまだだったのだ。

 

そんな中で、よくもまぁ書かせて下さった、と、版元(出版社)さんには感謝しかなく、今でも私は、新宿区東五軒町に足を向けては寝られない(ということにしておきましょう)。
が、当然、「絶対に売れる」という保証のない本に予算などつけてもらえるはずはなく、ムヒカ本人に直接会って話を聞くなんぞ、夢のまた夢の話。
そもそも私は、彼に会いたいがために本の企画を出したのだが、現実は、そんなに甘くはないわけで。

かと言って、自腹を切ってまでウルグアイに行く根性も時間も、そのときの私にはなかったわけで。

 

「資料調べて、さっさと書いてしまってくださいね〜」

 

担当のベテラン編集者Iさんは飄々と言った。

 

で、私は、ムヒカ関連の新聞や雑誌の記事、動画など執筆の資料となるものを自分自身で片っ端から集め始めたのだが、日本語のものは皆無と言っても過言ではない状況を思い知ったときには、一瞬、気が遠くなった。


資料はスペイン語と英語のみ。


私は、スペイン語はおろか、英語だってアヤシイ……。
でも、だからと言って、プロの翻訳家や業者に大量の資料の翻訳を依頼する潤沢な予算はない。

 

「この話、なかったことにしてもいいですよ。というか、資料のところで躓いているんだから、もう諦めたほうがいいんじゃないの?」

編集のIさんは言った。

「いいえ、やらせてください、資料の翻訳はなんとかします!!」

私は食い下がった。


私は、自分ではそんなに聞き分けのないほうではないと思うし、ときと場合によっては、あっさり諦める。
でも、なぜか、そのときは、「諦めたくない、諦めてなるものか」と、強く、強く、思ったのだった(このとき諦めなくて本当に良かった、と、のちに、しみじみ思うことになるのだけれど)。

 

「英語の資料はなんとか自分で訳してやろうじゃないよ!! スペイン語のほうは、お駄賃程度で訳してくれる優秀な人を見つけてきてやろうじゃないよ!!」

 

私は腹をくくって、人探しに奔走した。
そして、割合に早い段階で、早稲田大学で学ぶ日系ウルグアイ人の女子留学生にたどり着く。
「これで万事解決」と私は安堵した。
しかし、それも束の間、「とりあえず、これだけ訳してみてください」と資料の一部を渡してから数日後、彼女から「ごめんなさい」のメールが私のもとへ届く。
そこには「トライしたけど、私の日本語能力では無理」と書かれていた。

 

「ゲッ……」

 

私は再び奈落の底に落ちた。
彼女と会ったとき、日本語がネイティブな感じではないことはわかったけれど、「日本の大学で授業を受けていることだし、大丈夫だろう」と、私は勝手に思い込んでいた。
でも、あとで本人から聞いたところによると、日系一世の両親の間にウルグアイで生まれた彼女は、家庭でもスペイン語を話して育ったのだという。

日本語は、日本に来てから本格的に学んだものの、早稲田大学では、ほぼすべての授業が英語で行われる学部に通っていたため、日本語の上達はいまひとつ。新聞や雑誌の長い記事を西訳、和訳するまでには至っていない……と。

 

そういうことなら仕方がないけれど……。

 

また振り出しに戻ってしまった。


だけど、私は諦めなかった。そんな私に、神さまが味方をしてくれたのだろうか。お小遣い程度で正確な翻訳をしてくれる奇特な人がとうとう見つかって、全面的に協力をしてくれることになったのだ。

こうして、私は、悪戦苦闘しながらも、念願のムヒカ本を書き上げることができたのだった。

 

ウルグアイ大使館に取材に行ってもらった貴重な(資料がほとんどない、という意味で)小冊子
ムヒカ本第一弾を書くために収集した資料のほんの一部

自分の本が完成すると、ひととき、リビングの一角に置いて悦に浸るのが、私の習慣だ。今となっては貴重な(!)初版