あの東日本大震災から10年の時が経った。“危険地帯ジャーナリスト”として注目を集める丸山ゴンザレス氏は宮城県仙台市出身。2019年に石巻、牡鹿半島に栄えた縄文時代の歴史を検証しながら、復興の只中にある半島部のリポートしてもらった。石巻は幼い頃から何度となく訪れた思い出深い土地でもある。この『日常にある「非日常系」考古旅』の連載をまとめた単行本『MASTERゴンザレスのクレイジー考古学』にも掲載したが、今回は特別編としてこのリポートを前後編でお届けする。
■縄文人に立ち返る石巻の旅路
文と写真/丸山ゴンザレス
「牡鹿、興味あるっしょ。行ってみない?」
いきなりの電話はタビリスタの担当編集Sさん。同じ大学の先輩で、双葉社の編集者でもある。公私に渡ってお世話になっているので頭が上がらない存在である。そのことを知ってか知らずか、いつも軽いノリで無茶振りしてくるのだ。今回も第一声から香ばしい匂いがする。
「牡鹿って、俺の地元・宮城の牡鹿半島ですよね?」
「そうそう。実はさ、地方創生事業の一環で、石巻を旅してみるって企画があるわけ。11月ぐらいなんだけど、帰省ついでに行っちゃいなよ」
このとき、すでに2018年も後半。帰省といえば正月を待つばかりの時期だ。たとえ学生さんといえども、11月のような中途半端な時期に実家に戻るはずもない。ジャーナリストで研究員の肩書を持つ私のような自由業ならではなのかもしれない。
「ありがたい話なんですが、これってタビリスタのコラムってことは、今連載している感じで、牡鹿半島で考古的なことを書くわけですよね?」
「そう。前に石巻とかで遺跡が見つかってどうこうって話、してたじゃん。あれ」
牡鹿半島を含む石巻は、震災復興住宅の建設で数多くの遺跡が見つかっているという話を、國學院大學の先輩でドラえもん的に考古学のことで手助けしてくれるフカサワ准教授こと、太郎さんに聞いたことがあった。そのことを考古学ネタの連載している本サイトのネタ出しのときに話した記憶はある。
地元であると同時に、石巻には特別な思い入れがあった。2011年の東日本大震災の直後から何度も足を運び、ジャーナリストとしての生き方にも影響を与えたあの場所に、また行くのかと思うと不思議な気持ちになった。嫌な感じではない。呼ばれているというか、引き寄せられている。そんな気がしていた。
「分かりました」
承諾の返事をした。それから、旅立つ前に國學院大學へと足を運んだ。この連載を始めてからというもの、何度となく来ているので、さすがに外様感も消えてきて慣れたものである。
「ちわ~っす。太郎さん、また来ました~」
「お前さん、もっと敬意を持って入って来れんもんかね。これじゃあ、就活前の学部生みたいだぞ」
苦笑いを浮かべる太郎さんに今回の取材の趣旨を伝えると、表情がほころぶ。
「実は金華山の調査をやってるんだ。あそこは“信仰の島”だからね」
金華山は牡鹿半島の沖にある島のことで、古くから信仰の対象となっている島だ。子供の頃に行ったことがある。信仰の対象ということは、文化財の宝庫なのではないだろうか。見て回る価値のある場所だって少なくないはずである。
「宮城県の教育委員会あたりが報告書を出してると思うから、見ておけよ」
事務所に戻って報告書を検索する。かつては研究室や図書館、役所などにいかないと報告書を読むことができなかったが、現在はデータベース化されており、簡単に探すことができる。「石巻」「震災」で報告書がいくつかヒットした。その中で、『東日本大震災復興事業関連遺跡調査報告』というのをピックアップして眺めると、どうやら縄文の遺跡が多いようだ。国が主導して「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を目指すことが発表されて以来、注目度が高まっている東北地方の縄文ブームに乗ってみるのも悪くないかもしれない。
(遺跡と地方グルメなんかを組み合わせて、縄文人になったつもりで、ご当地で「狩猟・採集」されたグルメを堪能しちゃおう的な……企画として、アリだな)
そんな、わりとざっくりとしたプランを胸に抱いて、宮城へと向かったのであった。
◎石巻名物が市役所!?
普段、丸山ゴンザレスとしての取材旅は、一人ですることが多い。危険地帯に付き合ってくれるような奇特な人はあまりいないからだ。それなのに今回の旅は一人ではない。道連れ……いや、パートナーとしてSさんが同行してくれることになった。まあ、これは石巻が危険地帯ではない証拠とでも言えるだろうが、私としてはもっと気になることがあった。
「Sさん、免許あります?」
「あるけど」
「運転、お願いしてもいいですか?」
東北地方の取材で車は必須である。特に、遺跡やらロードサイドのB級グルメを探ろうという取材では、車なしなど考えられない。徒歩で動ける圏内なんて、たかが知れている。ましてや、数十分に一本のバスや電車などはあてになるはずもない。
「えっ…いいけど……(こいつ、運転しない気だな)」
Sさんの表情から、私にどんな感情を抱いているのかは察していたが、ここは黙殺。私は疲れるので、どうしても運転したくない。表情が引きつったままのSさんには悪いが、無事にドライバーを確保したことで、石巻の取材を開始した。
この街には震災前も後も何度となく来ているが、その方法は、いつも変わらない。車で来たとしても、駅周辺の中心地から少しずつ遠隔地に足を延ばす。「俺的な」が枕詞になる回り方だけれども、今回もまた、駅前あたりの観光地あたりから回ることにした。
「Sさん、もうすぐ石巻名物、市役所ですよ!」
「はあ? (市役所が名物って…こいつバカなの?)」
「違うんですよ、マジで珍しいんですよ。元はショッピングモールで、建物がピンク色なんです」
そう言って案内した市庁舎を見たSさんは、絶句しつつも「確かにピンク」と納得してくれたようだった。

こんな調子で、市内の名所をいくつか回っていく中で、どうしても立ち寄りたい場所があった。石巻市中心部から車で10分ほどの距離にある日和山公園だ。ここには、門脇や南浜など、震災で津波の被害に遭った地区全体を見下ろすことができる展望台がある。
2011年3月14日に、震災の取材目的で私はここを訪れたことがある。津波被害の状況に現実感がなかった私は、街全体を見渡そうと高台向かったのだ。そして、ここから見た風景に絶句し、自ずと階段を下って歩き、それから何日も石巻を歩き回ることになった。この公園が、震災取材を開始するスタートの場所でもあったのだ。
ここに立つと、あの当時のことを鮮明に思い出す。展望台付近にある売店は営業していなかったが、今は営業を再開していたので、入ってみることにした。コンクリートがベタ打ちの土間にパイプ椅子と石油ストーブの店内は、どこか物寂しい雰囲気。
(あの売店、7年前には入れなかったから、いつか行こうと思っていたんだよな)
そんなセンチメンタルな気持ちを抱えてしまっていることを悟られないようにするのに精一杯だった。
展望台から街を見下ろすと、無数のトラックが往来しているのが見える。少しずつ復興は進んでいる証拠なのだが、工事車両が行き交うということは、いまだ復興が終わっていないことを如実に示していることでもあるのだ。
そんな思いを抱えながら日和山を後にし、日和大橋を越えて、牡鹿半島へと入っていった。