文と写真・下川裕治 

 

■石垣港にて

 平野から戻りのバスに乗ってバスターミナルに帰った。これで石垣島の13路線のうち12路線に乗った。残るのはカーリー観光の空港線だけである。翌日、東京に戻る。空港までそのバスに乗れば、すべてを乗り終えることになる。

 バスターミナルでバスを降り、

「ふーッ」

 とひと息つく。やっと石垣島の路線バスも乗り尽くせそうだ……。

 夕方、石垣港離島ターミナルにある「マルハ鮮魚」に向かった。石垣島を去る前日の夕方、この店のプラスチック椅子に座ることは多い。500円のキハダマグロのさしみとビール。ここに座るとさまざまな思いが去来する。

 離島から石垣港離島ターミナルに戻り、空港に向かうときは靴下を履くのがこの店だった。離島で履いていたビーチサンダルをここで脱ぐ。そして靴に履き替える。それは東京に戻る儀式のようなものだった。

「もう夏休みは終わり」

 と告げられた少年のように、無言で靴下を履く。明日から東京の暮らしが待っていると唇を噛む。

 

石垣港。この頃、便数はだいぶ増えてきた

 

 30代の頃、失踪したデザイナーを探して竹富島に渡った。彼は優秀なデザイナーだったが、年に2回か3回、姿を消してしまった。彼はある週刊誌のグラビアページのデザインを担当していた。週刊誌である。突然の失踪に皆が慌てた。そして2~3週間がすぎると、すっきりとした顔で姿を見せる。

「いや~悪かった、悪かった」

 と頭をかきながら。

 僕はフリーランスとしてその週刊誌にかかわっていた。あるとき、デスクに呼ばれた。

「沖縄に行くんだって? 実はいま、デザイナーが姿を消してるんだけど、どうも沖縄にいるらしいんだ。竹富島。もし、行くんだったら探してきてくれないかなぁ」

 竹富島に渡った。どこにいるのか、あてはなにもなかった。島内のナージカーあたりのサンゴ塀の道を歩いていると、ばったりと彼に会った。

 互いに目が合った。

 彼は竹富島に家を借りていた。横のつながりが強い島で、家を借りることは簡単ではないと聞いたことがあった。何年も通いつめ、人脈をつくらないと難しいといわれた。つまり彼は、竹富島にそこまでの人脈をつくっていたのだ。毎日、観光客の知らない磯で潜っているようだった。

「黙っていてくれよな」

 その言葉を背中で聞いて石垣島に戻った。港の「マルハ鮮魚」に座った。

 竹富島に逃げる……。その気持ちが痛いほどわかった。彼はもともと自由を愛するデザイナーだった。才能があったのだろう。週刊誌から声をかけられ、毎週、編集部に通うことになった。しかし数ヵ月、それを続けていると、彼のなかのなにかがいっぱいになってしまう。そして心の均衡を保つように、竹富島へ逃亡してしまうのだ。それは衝動だった。

 その週刊誌には世話になっていた。収入を考えても助かっていた。

「報告すべきだろうか」

 茶色いビールの液体のなかに、「黙っていてくれよな」と語る顔が映る。

 東京で電車に飛び込んで逝った友人の足跡を追って波照間島に渡ったこともあった。日本最南端の島は、星を眺めに向かう人が多い。彼の本業は編集者だったが、ふらっと波照間島に渡った。なじみの民宿に泊まり、ボランティアで夜、宿泊客に星案内を続けていた。彼は天文少年だった。レーザーポイントで南十字星を光をあてる彼の顔は、天文少年のそれだったのに違いない。

 波照間島から石垣島に戻ったときも、「マルハ鮮魚」でビールを飲んでいた。友人は僕と同年齢だった。大学時代からの知人だった。彼の人生が、キハダマグロのさしみの周りをぐるぐるまわる。

 石垣港離島ターミナルは、離島と東京の接点だった。

 石垣島を基点に、竹富島、西表島、与那国島をまわった。路線バスを乗りつぶす旅だが、離島の空気にどっぷりと浸る旅だった。

 明日、いったん東京に戻る。残っているのは、沖縄本島周辺の島々だった。

 あまり間をおかず、それらの島をまわるつもりだった。うろうろしていると、沖縄は台風の季節を迎えてしまう。ひどいときは、毎週のように台風に襲われる。そうなると、離島に渡ることが難しくなってしまうのだ。

 しかし東京に戻った僕は、再度、新型コロナウイルスに巻き込まれていってしまう。そして沖縄も急激に感染者が増え、県独自の非常事態宣言にまで進展していってしまう。東京から出ることが難しくなってしまうのだった。

 

これが石垣島で最後に乗った路線バス。カーリー観光の空港線。500円

(次回に続く)