縄文人に立ち返る石巻の旅路 
遺跡グルメ、そして復興~〈後編〉
文と写真/丸山ゴンザレス

 

前回、縄文から古代、中世、近世に至る貴重な文化財の宝庫である石巻の牡鹿半島を巡った。そこにある数多くの遺跡に行ってみることで、その景観から歴史を肌で感じることはできたものの、肝心の出土品を見ないことには、今回の旅のテーマである「縄文人に立ち返る」ことを完遂したことにはならない。そこで、あれこれネットで検索したところ、「寶ヶ峯縄文記念館」がヒットした。

存在そのものが初耳だったこともあり、太郎さん(大学の先輩で頼れる考古学者)にも連絡を入れるが、「名前は聞いたことがあるけど、行ったことはない」とのこと。

 

名称からして、おそらく私設のものだろう。文化財保護法が整備される以前の時代、特に明治~昭和初期あたりまでは、個人的に発掘をしてコレクションを展示することも珍しくなかった。これは、地方にはよくあるパターンのことで、地元の名士が私財を投じて博物館や資料館などを建設していることがあるのだが、そうなると調査や研究されていないものが、ただ並べられていることになる。

(はたして、見に行く価値のあるものなのだろうか……)

 私の中では、そんな気持ちが強くなっていた。

「調査で石巻に何度も来ている太郎さんも来たことない場所ですからね。正直、嫌な予感しかしないです」

 そう言うと、すかさずこんな声が…。

「でも、行ってみないことには始まらないから、とりあえず行こうよ」

 とは、いつになく前向きなSさんの言だ。

「そうですね。何か“発見”できるかもしれませんからね」

 Sさんに励まされつつ、とりあえず「寶ヶ峯縄文記念館」へ向かうことにした。

いざ寶ヶ峯…その前に

地図で確認すると、寶が峯縄文記念館は石巻市内陸部に所在している。スタート地点である我々が宿泊していたサンファンヴィレッジ(石巻市渡波)からだと、車で40~50分程度の距離である。それだけの道のりなら、せっかくなので途中に他の観光名所を回っておこうと思い、市街地に差し掛かったあたりでSさんに提案してみた。

「寶ヶ峯に行く前に、ちょっと寄りたいところがあるんですけど、いいですか? ある意味、これも石巻の “至宝”なんで。むしろこっちのほうが一般的かも」

「いいけど、どこ?」

「石ノ森萬画館です」

『仮面ライダー』や『サイボーグ009』などの作品で有名な漫画の巨匠・石ノ森章太郎の作品を展示する漫画ミュージアムである。県北の登米郡(現在の登米市中田町石森)の出身だった石ノ森氏は、学生時代に映画を見に通った石巻を第二の故郷と言っていたそうだ。

 石巻には、この萬画館だけではなく、市街地の至る所に、石ノ森氏が生み出したキャラクターのモニュメントがある。そんな風景からは、町全体で石ノ森章太郎作品を盛り上げようという意気込みが伝わってくる。まさに町おこしのシンボルだ。

 

 石ノ森萬画館は、市街地にほど近い石巻湾に注ぐ旧北上川(新北上川はもっと上流で枝分かれしている)の河口付近に浮かぶ中洲に建っている。東日本大震災の発災時には、屋根の形が丸いために津波に流されなかったというエピソードや、残っていた職員が屋上に逃げて助かったという話、その後、津波で流された人々を助けて施設内で数日過ごしたなんて話も報道された。

 私自身も、発災当時、この周辺を何度となく歩いた。そのときは、中洲が建物や船や車などで埋め尽くされ、館内には瓦礫が流れ込み、見る影もない姿だった。ここもまた、震災と切り離して考えることのできない場所なのである。現在の立派に修繕された建物からは、当時の様子を窺い知ることができないほど。ここは震災被害の象徴であると同時に、復興の象徴でもあるのだ。

 

 中に入ってみると、そこは漫画好きの心をくすぐる世界だった。仮面ライダーなど石ノ森キャラが大集合した展示品の数々は圧巻! さらに石ノ森氏が若い頃に手がけた原稿の実物が一枚一枚、漫画技法の丁寧な解説を交えて展示されていた。現代の漫画ブームの礎となった黎明期を代表する大作家の息遣いが感じられる。どこの展示にも、石ノ森氏の漫画愛がこもっており、子どもよりも大人のほうが夢中になるものばかりだった。

 ちょっと立ち寄るつもりが、思わず長居して、だいぶ時間をオーバーしてしまった。そんな石ノ森萬画館を後にして、我々は再び寶ヶ峯へと向かうことにした。

石ノ森萬画館の震災直後(左)と現在(右)の様子

■田んぼの中に佇む巨大庭園

市街地を抜けると、果てしなく続く田んぼや畑。そこにときどき家数件の集落が現れる。どこを切り取っても東北の田舎はこんなものだ。そんな道をしばらく進み、幹線道路から外れて、カーナビが指し示す集落に入っていく。どうやらここが「寶ヶ峯」らしいのだが、そこにあるのは、いかにも旧家然とした古めかしいお屋敷。「齋藤氏庭園」の看板がある。車を停め、間違ったかなと思いながら自信なさげに土塀に沿って進んでいくと、大きな門構え。そこに隣接して「寶ヶ峯縄文館 入口」とある。やはり、ここのようだ。

茅葺屋根の日本家屋や漆喰で塗られた土蔵が並ぶ庭園の中に、「寶ヶ峯縄文館」の看板が掲げられた重厚な建物。そこがメインの展示スペースだろう。だが、建物には鍵がかかっていて中には入れない。しかも、入り口付近の事務所に人の気配はない。

(これじゃ、展示を見るのは無理だな……)

そう思って諦めかけていたところに、この庭園の職員の方が出てきてくれた。現在、邸内は補修工事が行われており、団体の事前予約がないと開館していないとのことだったが、取材で東京から来た旨を告げると、快く館内をアテンドしてくれた。

館内に入ってみると大きな玄関があり、板張りで土足厳禁だった。

すぐに目についたのは、土層の剥ぎ取り標本である。これを作るには専門の技術を持った人が必要だ。そのうえ、ズラリと並んだ展示ケース。素人が並べただけの陳列館とはワケが違う。

(もしかして思っていたのと違うのかな?)

ケースに置いてあるのはきちんと分類された土器や石器、土偶などなど。解説パネルにも素人感はない。しかも、壁には坪井正五郎氏の直筆の手紙まで。

ちなみに坪井正五郎氏とは、考古学史では有名な人物だ。ざっくりと説明すると、明治時代に活躍した東大の教授で、まだ考古学と人類学なんかの線引きがごちゃっとしていた時代のリーダー的な存在である。とはいえ、この人がここに関わっているということは考古学史級の遺跡であることは間違いない。

「この資料館は行政のものではないけど、行政と連携して発掘調査された出土品なんですよ」

と、職員さんが丁寧に説明してくれたところで、かつての知識と記憶が湧き上がってきた。

「あの、気づいちゃったんですけど、ここ、すごい遺跡です。というか、なんで名前見て気づかなかったのかな、俺。寶ヶ峯って標識土器ですね。すごく偉いやつです」

展示室に置いてあったものと同じ『寶ヶ峯』という巨大な上製本を大学の研究室で見たことがあったのを思い出したのだ。これは、縄文研究では古典文学のような存在である。標識土器とは、時期を計るための“ものさし”のような土器のことで、一定の期間に広い範囲で流行していなければならないという条件をクリアしたものである。その標識土器が出土したのが、ここ寶ヶ峯遺跡だったのだ。寶ヶ峯式土器は、その中でも縄文後期の標識土器となっている。ちなみに約1万5000年前から始まったとされる縄文時代の後期は約4500~3300年前ぐらいの時期である。

 

要するに「超」が付くとまでは言わないが、それなりにメジャーな遺跡である。いくら私が縄文を専攻していなかったとしても、研究者と名乗るなら気がつけよって話である。

そのスケールにはマッカーサーもビックリ!?

そのあと、すぐに目に入ったのは設立者の齋藤家の肖像画など。いったい何者なのか、気になって来歴など説明パネルを見ていると突然、Sさんが唸った。

「んん! 齋藤氏って…ああ、あの葛西家の家臣だったんだ! ってことは、もしかして齋藤家って豪農の齋藤家なのかな……あ、やっぱりそうだ」

「葛西?」

「知らないの? あのさ、日和山って石巻城跡だって知ってるよね?」

「え……っと、城跡だってのは知ってましたけど」

「あんまり分かってなかったってことだね(笑)。あそこの城主だったのが葛西氏で、豊臣秀吉の天下統一事業の奥州仕置で敗れ去るまで、陸奥の中部一帯を治めた有力な中世大名だったんだ。齋藤家はそこの家臣の流れ。多分、葛西氏の滅亡後に、ここの場所に移動してきたんだろうね。それで、後に日本屈指の豪農になった」

「そうなんすか……」

「東北三大地主って聞いたことない? 秋田の池田家、山形の本間家、宮城の齋藤家って近代史では有名なんだけど。戦後の農地改革が行われるまでは、日本トップの大資産家だったっていう」

「……いやぁ、戦前とかはあんまり……」

実はSさんの大学時代の専攻は日本近代史だったため、この時代のことは私よりも詳しかったりする。この上から目線には納得いかないが、ただのチャラペラな編集者ではないようだ。ここぞとばかりに知識を披露するSさんに、私は対抗する気力すら生まれなかった。

(考古学の知識なんて、いくら披露したところでこれっぽっちもインテリ感がないというのに。これだから文献史学の連中っていうのは……悔しい!)

 

ともかく、9代目の齋藤善右衛門さんが、この家を大きく発展させたことは分かった。あとで読んだ展示パネルにも書いてあったし……。それだけの名家だということが分かったところで、せっかく職員さんが案内してくれているということもあり、齋藤家についてもいくつか教えてもらった。すると、

・花嫁行列は5kmになった。

・8代目は武道の達人だった。

・東本願寺に現在の貨幣価値で200億円ぐらい貸した。

・戦時中、寄付金で作られた戦闘機が齋藤號と命名され、出撃前に齋藤家の敷地の上空を二回、旋回した。

・銀行に金を貸すほどの資金力を持っていた。

・家の中に交番があった。

・終戦後、武器弾薬を隠しているんじゃないかと疑ったGHQのマッカーサー元帥がジープで乗り付けたほどの蔵がある。その蔵は現在も敷地内にある千石蔵で、実際に1000俵もの米俵が収められていた。

……などなど、その桁外れなスケールの資産家ぶりに驚愕しっぱなし。中でも私が驚いたのは、「サイトウホウオンカイ」だった。

「サイトウホウオンカイなんかもね、齋藤家によって設立されているんですよ」

(サイトウホウオンカイ……って、あの齋藤報恩会のことなの!?)

字面はよく見ていたが音声で聞くことがあまりなかったため、最初はピンと来なかったが、仙台市民だったら誰もが知っている名前だ。齋藤報恩会は、学術振興目的の一般財団法人で、齋藤報恩会自然史博物館(現在は閉館)を運営していたし、貸し会議室とかもやっていたので、何度も行った記憶がある。まさかそこにつながってくるとは思ってもいなかった。齋藤家の恩に報いる会。齋藤家が宮城の近代史に大きく関わっている家だということをあらためて痛感した。

置かれているもの、庭、建物、すべてが一級品であることは素人目に見ても分かる。特に江戸末期から明治~大正~昭和(戦前)までの豪農の生活やビジネスを垣間見ることができるものばかりだった。

 

もっと見ていたい気持ちはあったものの、夕暮れが迫っていたこともあり、お礼を言って邸宅を後にすることにした。すると職員さんが帰り際に、

「寶ヶ峯っていうのは、この裏山で出てきた遺跡の名前なんです。当主の別宅を建設しようとした場所から遺跡が出てきて、そこで出土したのが、先ほどの展示品です。この屋敷の真裏だから、寄ってみてください」

と、遺跡の場所を教えてくれた。



■遺跡で縄文人の息吹を感じる

遺跡は車で2~3分ほど上った高台にあった。今では何も残っていない。標柱が一本立っているだけで、一面は畑になっている。

「なんもないね。察しはついていたけど」

「そうですね。ただ……あ、ありました」

 畑の端っこに落ちている土器片を拾った。

「え!? マジ」

Sさんが驚いていた。どうやら表採(表面採取)のことは知らないようだ。遺跡の発掘では、すべての遺物を発掘していくわけではない。調査にかかる予算や日数、それから土地の権利などの関係で、遺跡の範囲すべてを発掘することは不可能に近いからだ。となれば当然、掘り残しの土器片なんかも無数にあるわけで、それが石ころ同然に転がっているなんてケースもままあるのだ。

あまり使うことはない知識かもしれないが、表採についてもう少しコツを紹介しておこう。

基本は、遺物がどういうものかが分かれば、落っこちていてもすぐに気づく。それはもちろん、勉強と遺物に触れた経験が物を言うのだが、考古学初心者でも見つけることができないわけではない。ポイントは、敷地の端をみることだ。特に耕作地などでは、耕したり整備した際に小石を畔(あぜ)にまとめておくことがよくある。そこを重点的に見ると、土器や石器が、わりと混じっているなんてことも珍しくない。見分けるコツとしては、角度や断面、表面の文様といった自然界にはない人工物の違和感を探ること。この感覚は一度身につくと、比較的容易に見つけ出せるようになる。また、1つでも見つけたときは、周辺をシラミ潰しにあたると、さらに発見できたりするもの。

Sさんに見せた土器片も、畑と農道の境目に溜まっていた石の中から見つけ出したものだった。破片としては小さいものだったので時期を特定することはできないが、寶ヶ峯遺跡から縄文後期の遺物が多く出土していることを考えると、これもおそらくはその時期のものだろう。たとえ詳しく分からなくても、研究成果を引用すれば、そのぐらいの見立ては誰にでもできることである。

 

考古学は学問だが、選ばれたものだけの特権ではない。むしろ、知らない人に新たな視点を与えてくれる道具みたいなものだと思っている。

同じように難しく考えないでほしいのが、遺跡である。

遺跡とは人間の生活の痕跡である。当時のことが完全に復元できていなくても、そこに古代の人々が生活していたことを想像することはできる。先史時代の人々が見た景色や、使っていたものに数千年前の時を経て触れるということだけでも、感慨深いものである。

また、はるか古代に思いを馳せると同時に、まったく別のことも考えてしまう。

高台にあるこの遺跡からは、かなり遠くの海のほうまで見通すことができた。周囲がすべて耕作地だからである。斎藤家がこのあたりの豪農だったということは、ここまでの道中に眺めてきた田畑が全部、この家の持ち物だったということ。つまり、石巻の港からこの遺跡まで、車で1時間弱の範囲が、一つの家の土地だったということになる。そのスケールの大きさは、この地に立たないと、なかなか実感できないことだった。





こうして牡鹿半島の縄文の旅は幕を閉じることになった。取材でも考古学でも、大事なのは下調べが9割と言ったが、ちなみに残りの1割は何か。それは「引き」である。大きな当たりを引き当てるのは、本当に運でしかない。今回は見事に“穴場の新名所”を引き当てた気がしていた。やはり、来てみなければ分からないものだ。

だから言うわけではないが、運任せの旅も、なかなかいいものだと思う。ガイドブックをなぞって旅するのもいいが、それだけだと、いつの間にか確認作業に終始しまうことがあるからだ。気の向くままに、行き当たりばったりのほうが、何かに出会えたときの感動も大きいだろう。前日の、「だいたいこの辺」と当たりをつけて見つけた遺跡からの景色や、船が出なかったからこそ出合えた地元のグルメ、そして穴場の新名所発見と、今回の旅の“嬉しい誤算”は、そのくらい大きな感動を覚えるものだった。

思い立ったら、まず足を運ぶ――。それこそが、旅の醍醐味なのかもしれない。

 

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【縄文人に立ち返る石巻の旅路~OSHIKA ROAD SIDE TRAVEL2019~(前編)】遺跡、グルメ、そして復興

 

MASTERゴンザレスのクレイジー考古学
MASTERゴンザレスのクレイジー考古学

TBS系列の旅番組『クレイジージャーニー』で人気を博し、今ではユーチューバーとしても活躍する危険地帯ジャーナリスト・丸山ゴンザレスが、これまでの取材を通じて見てきた「裏社会」と、学生時代に修士号を取得した「考古学」を融合させた「ハイブリッド考古学」の実証に挑む。自身の半生を振り返りながら持論を展開する渾身の紀行エッセイ。