スパイスや香草を巧みに使うアジア諸国は美食の宝庫だが、シンガポール、マレーシアあたりでは首をかしげることがよくある。例えば、「サテ」。炭火で焼いた鶏肉の串焼きに、ピーナッツベースの甘ったるいソースがたっぷりかけてある。キリッと冷えたビールのツマミに、甘い焼鳥というのはなんともいただけない。
8年ほど前、雑誌の特集記事の仕事でシンガポール市内の中心に位置するリトルインディアという街を訪れた。通りを歩くインド人の肌は褐色で、看板にタミル語が記されているあたり、どうやらインド南部からの移住者が多いようだ。街を歩きながら、ひととおりの撮影が終わったところで同行の編集者がタクシーを拾おうとしたときである。
駅近くの薄暗い広場が、なにやら慌ただしい。屋外に並ぶテーブルに、仕事を終えた男たちがゾロゾロと集まってくる。周りの屋台からは香ばしいにおいが漂いはじめ、男たちはキングフィッシャー(インドビール)のプルタグを次々と開け始めた。なかには「Knockout」と書かれた恐ろしい缶も見える。
「これはいったい……」
目を丸くする編集者に席を確保してもらい、となりの若者がつまんでいる豆の煮込みの店を探す。商店で売られている500mlの缶ビールは日本円で300円くらいだったか。生ビールが1000円を超える物価の高いシンガポールでは破格といえる。
トマトの酸味と複雑なスパイスをきかせた豆の煮込みに甘さは一切なく、キレのある辛さが食欲を刺激する。鶏肉のスパイス焼きやカレー味のジャガイモを餡にしたサモサなどを次々に買い足し、ビールを買いに商店へ走った。
鮮烈な辛さと奥深い旨みに、どっしりとしたインドビール。まさか南インドのスパイスが、いかんともしがたかったシンガポールの食事情に風穴をあけてくれようとは。
コロナ騒ぎで海外が遠くなってしまった。
アジアを懐かしむ旅仲間から「アジアごはん、なにが恋しい?」と訊かれてまず頭に浮かんだのは、バンコクのガイ・ヤーンでもなく、ハノイのフォーでもなく、あの豆とビールだった。




【リレーエッセイ「スパイス・カレー編」】
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