文/ステファン・ダントン

~日本茶と私の旅の始まり~

 

■お茶のイメージ

 

 お茶という言葉でイメージする風景はさまざまだ。伝統的な茶室でたてた抹茶をルールにそって味わう儀礼的な様子は、海外で紹介される日本茶文化の代表的なイメージだ。日本文化のコアにこうした日本茶文化があるということを学んではいたが、フランスにいた当時の私にとってのお茶は遠い異国の伝統文化だった。

 一方、日常と隔たった大文字の文化としての茶道とは別に、私たちフランス人が親しむcaféのように、日々の生活で常にかたわらにある飲み物としての日本茶がある風景を、私は映画で知った。小津安二郎の作品でもよく見られる、ちゃぶ台を囲んで展開される家族の会話や振る舞いから日本の家庭のありようを感じた。

 そこにはいつも茶だんすや茶筒や急須や茶碗があった。

 

床の間を背に姿勢を正して飲む日本茶もいいが…、下の写真のように、普段着で気取らず過ごす場所に日本茶があってほしい

 

■日本茶とのファーストコンタクト

 

 1986年に初めて訪れた日本で出会ったお茶は想像していたものとまったく違っていた。

 学生食堂のサーバーから出てきた緑色のぬるい液体は、私に「味気ない」という日本語を叩き込むほどひどいものだった。のちに、ちょっとしたサービスとして飲食店やサービスエリアがタダで提供する日本茶が、タダだからこそまずいのだということはわかったけれど、ファーストコンタクトの印象は最悪だった。日本茶が、水よりはマシな飲み物として軽んじられているようにも感じた。

 日本文化体験の一環として抹茶をいただいたこともあった。日本の伝統的な儀礼を学んでいるという実感はあったが、ひどく緊張しながら飲んだ抹茶の味そのものについては、

 「苦いエスプレッソみたいなものだな」

 という印象だけが残った。

 

 一般家庭でのお茶のあり方についても驚かされた。北海道のホームステイ先で「お茶にしましょう」とホストマザーが出してくれたのは、紅茶やコーヒーがほとんどだった。

 「私が外国人だからなんだろう」

 と当時は思ったが、その後、日本では「お茶をする」が必ずしも日本茶を飲むことを指すわけではなく、「(何かを飲みながら)休憩する」とほぼ同義であることを知った。休憩しながら飲むものの選択肢が増えて、日本茶はその一部にすぎなくなっていたのだ。

 「日本茶はもっと美味しいものだと思っていたのに…。日本の食卓には必ず日本茶があると思っていたけれど…」

 そんな失望とともに、日本で留学生として過ごした1年間で、私にとっての日本茶の印象はとても薄くなっていた。とはいえ、キラキラした東京や素朴な北海道のリアルな日本を経験したことで、日本や日本人への関心を深めた私は、ソムリエとしてパリやロンドンで働きながら、再訪日するチャンスをうかがっていた。