文と写真・室橋裕和
メコン河にかかった友好橋が、国境を変えていった。ボトルネックが解消され、陸路でタイとラオスを行き来できるようになり、貿易額が爆発的に増えたのだ。日系企業の進出も目立つ。インドシナ国境経済の象徴ともいえる場所だ。
サワンナケートの居酒屋おしん
バスはムクダハンの街を出ると、メコン河の左岸を5キロほど北上する。市街地はとぎれ、茶褐色の水を満々と湛えたメコン河と、真っ青な空がコントラストを描く。
そこに、虹がかかっている。
メコン河を横断し、両岸を結んでいるのは、タイ=ラオス第2友好橋だ。僕はこの橋を越えて、20年ぶりにラオス南部の街サワンナケートを訪れた。

なにかの間違いじゃないかな。まずそう思った。面影がないのだ。
20年も経てば記憶は薄れ、断片的なことしか覚えてはいないのだが、それにしたって賑やかすぎるのである。学生時代に訪れたサワンナケートは、ほとんどゴーストタウンのようだった。
日が沈むと、食事にすら困った。外食文化というものがほとんど育っておらず、わずかな屋台があるばかりで、それすらも夜7時くらいでぱったりと消えてしまう。なんとさみしい国かと思った。
それがいまは、映画館やショッピングモールまでがある。タイやラオスの若者たちで賑わう国際バスの中からは、どこにもあのときのサワンナケートは見つからなかった。
新市街のはずれにあるバスターミナルが国際バスの終点だ。イミグレーションでの手続きを含めて1時間弱の旅だろう。思い出をたどりながら、安いホテルの多い旧市街に向かう。
フランス植民地時代のコロニアルな建物が残る旧市街は、いくらか往時の名残があった。歴史的建造物もあって開発しづらいのだろう。昔のように静けさに包まれていた。無音の町に直射日光だけが降り注ぐ。
汗を拭きながら歩いていると、おかしな看板が見えてきた。我が目を疑う。
そこにはモンペを着て、ホッペを赤くして雪原に立つ少女、まぎれもない「おしん」の姿があった。
居酒屋おしん。
耐え忍ぶのかな。やっぱり。
20年ほど前までのラオスはまさしくインドシナの僻地。国土に信号は果たしていくつあっただろうか。首都ビエンチャンですら不気味に静まり返り、ひと気も活気もない国だった。
サワンナケートまでは、ビエンチャンからおんぼろのバスで20時間くらいかかったのではないだろうか。全行程未舗装という荒行だった。ダートラリーに出場しているのかと思った。ジャングルを切り開いただけの獣道のような場所もあったし、メコン河に落ちそうになったこともある。向こう岸のタイに逃げたかった。
昼食に立ち寄った食堂では、ドロドロに疲れ果てて一歩も動けなくなったところ、心配したラオス人の家族連れに声をかけられた。そして差し出してくれた弁当が、もち米と揚げバッタだったという心温まる展開は、いまでもよく覚えている。
あれから20年、ラオスは激変した。
なにせ「おしん」なんである。
確かにラオスにも日本食レストランは急増しているが、サワンナケートにまであるとは思っていなかった。
入店してみれば、そこにはガッツみなぎる日本人駐在員の皆さまが、腕まくりをして中生を鯨飲している頼もしい姿が。うるわしきジャパニーズ居酒屋そのままのスタイルが、ラオス南部にあった。
東西経済回廊で働く人々だろう。
サワンナケートが20年の間に様変わりした理由は、ラオス自体の経済発展もあるのだが、2006年に開通したタイ=ラオス第2友好橋の存在が大きく影響しているといわれる。
この橋がメコン河にかけられたことで、インドシナ半島の東西の流通はスムースになった。それまではメコン河を渡る船に荷を差し替え、対岸でまた積みなおし……と、通関作業も含めると2日もかかっていたそうだ。いまでは2時間で済む。
タイからラオス、その向こうのベトナムまでが陸路でつながり「インドシナ東西経済回廊」の開通だとずいぶん話題になった。交易の中心であるサワンナケートには投資が押し寄せた。
ラオス政府はサワンナケートを経済特区に指定、外資を優遇する措置を打ち出して、外国企業の誘致を進めた。日系企業も進出していく。
かくしてこの国境を挟んだ両国の貿易額は、橋の開通前は年間およそ200億円だったが、開通5年後の2011年には2000億円を突破している。そりゃあ往時の面影もないわけである。
個人的にもこの国境にはお世話になった。「東西回廊」ネタではずいぶんと稼がせていただいた。「これからは国境経済がアツい」とかなんとか適当な営業文句を並べ立て、さまざまな媒体に微妙に切り口を変えて、原稿を売りつけたのである。

