文と写真/室橋裕和

 

ポルポト派の「王国」であったと伝えられるカンボジア西部の町パイリン。ここを通過してタイに抜ける国境が開いたと聞いた僕は、勇んで現地を訪れた。しかし待ち受けていたのは、とてつもない悪路と地雷原であったのだ。

 

ひと昔前のバッタンバン

 カンボジア西部、バッタンバン……その名前からしてなんだか呪わしい街ではあるが、サンカー河の左右に植民地時代のクリーム色したフランス風建築が並び、けっこうシャレオツなんである。最近では欧米人の女子がカフェなんか開いちゃったり、こぎれいなゲストハウスでくつろぐバックパッカーがいたりと、ひと昔前とは違って明るい雰囲気。変わりゆくカンボジアを象徴するような街かもしれない。カンボジア第2の都市として着実に発展しつつある。

 で、「ひと昔前」である。

 僕は荒廃したバッタンバンの街をケンシロウのごとくさまよっていた。旅行者なんぞいない。フランス風建築もあるにはあったが、長年の内戦により汚れはて、ところどころ崩壊し、風情も何もない。街角ではふつうに大麻が売られ、目つきの悪い男たちがたむろするマッドシティ。

 そんな街で僕はタクシーかなにか、移動する手段を探していた。目的地はタイ国境だった。ここバッタンバンから西におよそ70キロほどの場所に、かつてのポルポト派の拠点パイリンがある。悪の巣窟と呼ばれたその街を通過し、タイに抜ける国境がどうも開いたらしい。地域で産出するルビーをポト派がタイに密輸して戦費を稼ぐルートとしても知られた道を、いま旅できる……そう聞いた僕は、いてもたってもいられずカンボジアまで乗り込んできたのだった。

 

 だが公共の交通機関というものが存在しなかった。バスがないのはともかく、乗り合いのピックアップトラックすらないのだ。むき出しの荷台に揺られる難民輸送車みたいなトラックも走っていないとは、もしやポト派の脅威がまだ去っていないのだろうか。当時パイリンを仕切っていたポト派の重鎮イエン・サリ氏こそ逮捕されたが、街では彼の子供たちがいまだ実権を握っているとされていた。

 どうすべえか……街をうろつきまわっていたところ、我こそはと名乗り出てきたのがバイクタクシーの運転手、シム君であった。

 「俺のバイクに乗っていけ。安くしとくぜ」
 と、後部座席をバンバン叩く。埃が舞う。パイリンまではどのくらいかかるのだろうか。聞いてみれば  「まあ朝出れば夜には着くだろう」とひどくアバウトな答えが返ってくる。たった70キロほどの距離であるのに1日がかりなのが気にはなったが、この辺境の街で英語がわかるドライバーというのはありがたかった。

 

バッタンバンにはこうした洋風の建築物が多く、散歩がなかなか楽しいのだ

 翌朝……晴れ晴れとした気分でシム君のバイクにまたがって、わずか10分のことであった。

 街を出ると、道路が砂漠と化した。砂煙で視界がきかず、息が苦しい。毎度毎度の未舗装ダート道は慣れっこだが、乾期のカラカラ天気が続き、道路を覆う土は砂となって舞い散る。それをひっきりなしに行き来する輸送トラックが巻き上げる。激しい砂嵐だった。シム君がコンビニ強盗のごとき全面マスクをしているのはこのためか。

 せっかくの朝シャンで決めた髪も速攻で真っ白になり、僕は耐えかねて買い物を申し出る。途中の雑貨屋で買ったカンボジア伝統の手ぬぐいクロマーを顔にまきつけて、ようやくまともに呼吸ができるようになった。だが、周囲が確認できないほどの砂煙の中を走るのはやはりきつい。

 

 加えて、道路はところどころ巨大な陥没が目立つようになってきた。雨季につくられた水たまりや池が、乾燥したまま放置されているのである。そんな道を飛んだりはねたり、ほとんどモトクロスのような状態で走っていくのである。なるほど時間がかかるはずだ。激しい振動で腰もケツも痛い。

 「それなら、ちょっと休憩していくか」
 というシム君が訪れたのは、とある寺であった。
 「ここはワット・プノン・サンボー。別名キリング・ケイブだ」
 ポルポト派による大虐殺はカンボジア全土で行なわれたが、ここもその舞台のひとつである。ワット・プノン・サンボーは小高い山の頂上につくられた寺院で、山頂にはいくつかの洞窟が口を開けている。殺した人々を無造作にその洞窟に投げ込み続けたというのだ。暗い暗渠を覗き込んでみると、なにやら往時の人々の怨み声が聞こえてきそうな気がしてくる。こんなのちっとも休憩じゃない。

 

カンボジア名物ピックアップトラックも最近はずいぶんと減り、フツウのバスが走るようになった

厳しい砂塵ルートをゆく。カンボジアの旅はワイルドなのだ