巨大な島を一気に北上していく
どうせボロバスとガタガタ道のマゾ旅だろう……と覚悟していたのだが、意外にもスマトラ島の交通インフラはけっこう整っていた。車体が大きく、座席数の少ないVIPバスがたくさん走っているのだ。料金はやや高めだが、ゆったりリクライニングできるし、バスによってはパーソナルテレビやWifi、USBなどもついている。道路はパイプラインと併走し、交通量は多いが整備はされている。世界で6番目にデカい島なので、街から街へ半日以上かかるような長距離移動は避けられないが、おかげで体力の消耗もなく旅できるのだ。ちなみに日本の本州は7番目。
そんなバスを乗り継ぎ、トバ湖、メダンと経由して、数日かけて島を北上。到着したバンダアチェは街路樹や公園の緑が印象的な、こぎれいな街だった。純白のモスクがまぶしい。
3方を海に囲まれているだけあって、屋台でも食堂でも魚が山盛りである。しかも安い。市場に行けば、ひと抱えもあるカツオのようなデカブツや、いますぐ醤油とわさびで食いたい赤身、ぷりぷりのイカなどがどっさり並び、日本人ならたまらないんである。
街の北西端にある海岸沿いの公園に赴き、インド洋を見やる。google mapを確認すれば、確かにいま僕はスマトラ島の先っぽにいた。笑みが込み上げる。大洋に向かって、ひとりガッツポーズを決める。僕はまたひとつ「最果て」を見たのだ。


津波被害から街はどう復興したのか
僕にはもうひとつ、目的があった。
バンダアチェは2004年12月26日に一度、壊滅している。この日の朝に発生したインド洋巨大津波はアジア諸国の広範囲を襲ったが、最も大きな被害を受けたのがバンダアチェだった。中心部は原型をとどめないまでに破壊され、死者・不明15万人。
僕は、あの3.11を知らない。当時、タイに住んでいたからだ。だから日本人が広く共有した悲しみや恐怖や怒りを、身体の中に持っていない。刻々と絶望感の増していく状況をネット越しに見てはいたが、そこに実感は伴っていなかった。
活動の場を日本に戻してからも、まだ東北を訪れることはできていない。いまでも、奇妙な疎外感を覚えている。
だからせめて、スマトラ島にまで来たこの機に、同じ津波被害を受けたバンダアチェがどう復興し、人々がどう生きているのかを見てみたかったのだ。
厳粛な気持ちで、まずは市内中心部にある津波博物館に向かった。あの津波が起きたメカニズムの解説や、被害状況、日本を含む各国の支援の模様などたくさんの展示があったが、言葉を失ったのは街の精巧なジオラマだ。震災の前と後とが比較されているのだが、地形が大きく変わり、沼や湖がいくつもでき、農地は塩害で荒れ果ててしまった様子が見て取れた。14年も経ち、一見すると復興したように見えるバンダアチェだが、そうではなく根本から街の姿を変えられてしまったのだと思った。
重たい気分で博物館を巡っていたのだが、みやげもの屋がけっこう盛況なんである。デザインも凝った津波Tシャツ、ショッキングな被害映像を集めた津波DVD、さらには地元の名産ドリアンを加工したお菓子や、コーヒーなどなど充実しており、インドネシア各地からやってきたと思われる観光客が群がっている。改めて見れば家族連れも多く、誰もが笑顔。
「日本人でしょ。日本から来る人、たまにいるんだよね。うぇるかむ」
ヒジャブをかぶった店員のギャルから声がかかる。悲壮感は、まったくない。
博物館の外で客待ちをしていたバイクタクシーのおじさんも同様だった。
「俺も家族と親戚のうち、5人が死んじまった。農家だったけど畑は塩にやられてもうダメ。だから被害を見に来る外国人相手に英語の勉強はじめて運転手になったら、けっこう儲かってね」
なんてけらけら笑うのだ。
