震災に負けず、利用して生きていく

 おじさんはいくつかの震災ポイントを案内してくれた。流されてきたボートがそのまま乗っかった住宅、いまだに放置されている無数の車、被害当時の写真を展示しているモスク、震災後にできた避難ビル、慰霊碑……そして最大の遺構は、発電船PTLD-Apung号だ。2600トンというこの巨大な船は、津波に押されて内陸に5キロも流され、この場所でようやく止まった。

 14年後のいまは、津波の脅威を示すシンボルであり、観光地となっている。甲板からは、震災後に建設し直されたバンダアチェの街が見晴らせる。自撮り棒を持ってキャッキャする女子たちであふれかえり、みやげもの屋はやっぱり大賑わいだ。僕もついつい、船をあしらったTシャツを買ってしまった。

 「ツナミ・ツーリズム」という言葉がバンダアチェにはある。震災の被害を後世に伝え、かつ収入源とするために、遺構を観光名所としているのだ。同時に、津波の起こる仕組みや避難の方法を教え、さらに地元の産品や周辺の観光地をアピールするなど、これは震災を逆手にとった町興しだ。

 実際、インドネシア各地からけっこうな観光客が来ているという。白砂のビーチや回復したサンゴの海域、豊かなシーフードもあるが、加えて震災遺構を人々は見学し、地元にお金を落としていく。
 やるなあ、と思った。

 「このあたりの村はぜんぶ壊滅したんだけど、このモスクだけ残ったんだ」
 おじさんが最後に案内してくれたのは、奇跡の一本松ならぬ奇跡のモスク。バンダアチェの西部にあるラーマトゥラー・モスクは、周囲の家並みが流されていく中、泥流に負けずただひとつ屹立し続け、その姿は世界中に報道された。いまでは再建された街の人々の憩いの場だが、やっぱり観光客も多い。

 「あらー、あなた日本人? ホラこれ買ってく? このへんの名産」
 頼んでもいないのに民族調のカラフルな布だのバッグだのを持ち出してきたおばちゃんは、モスクの前でみやげもの屋を経営しているが、
 「見て。あのドームのあのあたりまで海水が来たの。ホラ写真撮って」
 とか、モスクの内部まであれこれ案内してくれたので、地元では名物ガイドなのかもしれない。

 しかし彼女もまた被災者であり、家族を失って絶望していたところを救ってくれたのが日本だったという。 

 「被災民の心のケアをする、ってプログラムがあってね。その一環で日本に招待されたのよ。東京や富士山を旅行させてもらった。いっときだけど、いろんなことを忘れることができた。だから前に進めたのかもしれないね」
 そんなことを言うものだから、僕はついつい使いもしないであろうテーブルクロスなんぞを買ってしまうのだった。

 おじさんは僕をホテルに送る道すがら、小さな路地でバイクを停めた。バッソという汁そばの屋台だった。店主と笑いあう様子からすると、常連なのだろう。

 そこでふたりで、黙々とバッソをすすった。魚の出汁がよくきいていた。

 バンダアチェの人々はもちろん、自分たちが被災した7年後に、日本で起きた大震災のことをよく知っている。出会う誰もが、陽気な顔をしながら、そしてなにを語らずとも、どこか僕のことを気遣い労わる気持ちがあるようだった。それは滞在中ずっと感じていた。

 ふたりで汁まできれいに飲み干すと、おじさんはなにも言わず2人ぶんの勘定を払った。

バンダアチェ最大の震災遺構、PTLD-Apung号。内部は博物館になっている

ラーマトゥラー・モスクにて、バイクタクシーのおじさんと。撮影はみやげもの屋のおばちゃん

なかなかハデなPTLD-Apung号のTシャツ。およそ500円だった