「墓場」になっていた港
ロシア車を降りて、「海岸線」に立ってみた。
ここは世界第4位の面積を誇る湖、アラル海である。どのくらい広いかといえばおよそ6万8000km2、日本の東北地方の面積に匹敵するほどの大きさのため「海」と呼ばれたのだ。
しかしいま、目の前に広がっているのは砂の大地だった。水はどこにもない。砂漠を渡ってくる風が頬を切った。寒い、冷たいというより、痛い。吹き荒れる強風と巻き上がる砂塵。その昔、豊かな漁獲で賑わったという面影はどこにもない。アラル海は消えてしまったのだ。
深いところでは70メートルほどの水深があったという。だから海水がなくなったいまでは、海岸線は海底に向かって落ち込む断崖絶壁になっている。岩場に気をつけながら下りていく。
さらに風が強い海底には、朽ち果てた船がいくつも並んでいた。赤茶色に錆びつき、骨格があらわになり、なんだかクジラの死骸のようである。ほんの60年ほど前まで、こんな船がパーチ(スズキの一種)やペルーチ(コイの一種)、チョウザメを追っていたのだ。
いま「船の墓場」と呼ばれているここは、かつてのモイナク港である。もはや海の生命力も港の活力も感じられない場所に成り果てた砂漠を歩いてみる。
「おお……貝殻がある……」
確かに海だったのだ。その痕跡を拾い集めていると、声がかかった。墓場見学のウズベク人か、ごつい若者がふたり。身振り手振りから察するに写真を撮ってほしいらしい。ここはたまにヒマな物好きがやってくる、観光地でもあるのだ。お安いご用である。ほれ、そのスマホを貸してみ。
「ノー、ノー」
違うのだ、という。翻訳アプリを駆使するに、お前のカメラで、お前の思い出のために、俺たちの写真を撮るがいい……どうもそう言いたいようなのだ。ウズベキスタンでは何度かこういうことがあった。撮られたがりなのである。
なんで砂漠の真ん中で汚い男ふたりの撮影をしているのか不思議な気分ではあったが、墓場をバックにあれこれポージングさせて撮りまくると、彼らは満足したのか笑顔でサムズアップして断崖を上っていった。


消失した海の向こうには国境がある
これでまた生物は僕だけになった。
ここが死の海となったのは、ソ連がカマしたムチャな灌漑のためである。砂漠を耕地化して綿花を栽培するために、アラル海に流入していた大河から取水しまくったのだ。1960年代からはじまった開発工事によってアラル海と河川の水量はみるみる減少、いまや面積はたったの10分の1に過ぎない。海岸線はモイナクのはるか80キロ彼方にまで遠ざかってしまった。
もともと塩湖だったため干上がった底から塩が吹き、砂塵とともに周囲に撒き散らされる。塩害によって作物は育たず、健康にも悪影響が出る。漁業も農業も壊滅し、最盛期に3万人だった人口は1万人まで減った。みんな街を出ていったのだ。乱開発のツケは大きかった。
わずかばかり残された海は、国境を越えてカザフスタンにまたがっている。モイナクはかつてカザフスタン側の港とも船で結ばれ、モスクワにも航空便があった、国境の街だったのだ。
その国境の向こう側ではダムを建設するなど、水量の回復を目指す取り組みが進んでいると聞く。しかしウズベキスタン側では発想の転換か、この死の大地に思い切ってカジノをぶっ建てて「中央アジアのラスベガス」にしてしまえ、という計画があるそうな。UAEの投資家たちがブチ上げているようだが、この見捨てられたような地をマネーだけで変えていくのは難しいように思った。


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