文/光瀬憲子
台湾の政治が今よりもっと熱かったころ

2000年前後の台湾というのは、いろいろなことが今よりもずっと不安定だったように思う。
特に、中国との関係は台湾全体の経済や台湾人の暮らしに大きく影響した。だから、選挙があるたびに、台湾人は一喜一憂して次の総統や台北市長を真剣に選ぶ。総統の政策が対中関係を決め、対中関係が明日の商売を左右するのだから、みんな必死なのだ。台湾の選挙権を持っていなかった私は、みんなが熱くなるなか、わりとのんきに周囲の話に耳を傾けたりしていた。
90年代に初の「台湾出身の総統」となった李登輝(りとうき)は日本でもよく知られている。この李登輝のあと、2000年から台湾のトップの座に就いたのが陳水扁(ちんすいへん)という民進党の総統だ。民進党は、それまで台湾の最大野党であり、台湾独立を主張する政党だった。政権交代によって台湾独立派のリーダーが総統になった台湾は、一気に独立ムードが盛り上がり、中国との関係は悪化したものの、台湾人がとても台湾人らしくいた時期だったと今は思える。

ディスカバー台湾
台湾独自の文化や風習をモチーフにしたアートや建物が増えたり、地方都市がただ単に観光客を集めるだけでなく、歴史的に価値のある資源を守りながら復元していくという動きが現れだしたのもこの頃からだ。
2000年代になって、台湾の人たちは「台湾人とは何者か?」と自分たちに問いかけ始めた。北京語ではなく台湾語に誇りを持つこと。中国の文化ではなく台湾独自の文化を慈しむこと。そんな風潮が見え始めたのだ。
陳水扁が二連覇をかけた選挙では、台湾中が緑色(民進党カラー)に湧いた。緑のものを身に着け、みんなで手をつないで台湾を一周させようという企画が立てられ、陳水扁支持者はその日、大通りに出て横一列に並んで手をつなぎ、台湾をぐるりと一周囲もうとした。上空からヘリがそんな緑色の人の輪を撮影していた。

出産、在宅ワーク、そして上海へ
その頃、私はと言えば、2000年に出産を経験し、育児に追われていた。子供がいてもできる仕事として在宅翻訳を選び、育児の合間に子供を抱きながらパソコンに向かったりしていた。でも、いくら働いても生活は厳しかった。当時、台湾の給料は日本よりもだいぶ低かった。台湾の4年制大学を出た新卒でも日本円で10万円前後が相場。それなのに、家賃や車はけっして安くないので、生活は楽ではない。本当に陳水扁でいいのかな? という疑問すら湧いた。
台湾の独立志向が強くなったおかげで中国との政治的関係は悪化したものの、台湾のビジネスはどんどん中国に流出し、台湾は空洞化していった。私の所属していた台湾の翻訳会社も上海に進出するという。そして、元夫はまるでアメリカンドリームを掴もうとするかのように、上海で腕試しをしたいといって上海に渡ろうと言い出した。台湾での事業が上手くいかないので、上海ならば…と何の根拠もなく海を渡ったのだ。