文/チョン・ウンスク

 

 キム・ヨンエさん、享年66歳、影島出身

 

 2017年4月9日。スクリーンやテレビで長らく活躍してきた韓国のベテラン女優、キム・ヨンエさんの訃報に接し、私は釜山を思い出していた。キムさんは釜山の影島出身だ。

 

チャガルチ市場側から影島(ヨンド)を望む

 夕方、私の地元から近い水西(スソ)駅から新しい高速鉄道SRTに乗り、釜山駅に着いたのが夜7時少し前。釜山には何度も来ているが、近年、この街を舞台とした映画『弁護人』や『国際市場で逢いましょう』『悪いやつら』などがヒットしたこともあり、その関係の仕事で今までより頻繁に来るようになった。

 『弁護人』でキム・ヨンエさんは、自身の背景そのままに、影島のクッパ屋の人情女将を演じていた。ノ・ムヒョンをモデルとした弁護士役のソン・ガンホに、反体制運動に関わった嫌疑をかけられた息子の弁護を懇願する熱演が思い出される。

 

キム・ヨンエさんの故郷、影島のヒンヨウル文化村。壁には映画『弁護人』のセリフが

近代史の物語がはりついた街

 長らく日本人を相手に、ソウルの路地裏の魅力や庶民の息吹を伝え続けているが、私はソウル育ちなので、ソウルはあくまでも日常である。ハレとケで言えば、完全にケ。ソウルにいる私はナグネ(旅人)ではないので、表現者としてのモチベーションを維持するのはけっこう大変だ。だから、ソウルを外国として観ることのできる日本の表現者たちがうらやましくもあった。ソウル以外の韓国の地方紹介に力を入れてきたのも、自分も日常から脱出したかったからかもしれない。

 旅人として、物書きとして自分がもっとも熱が入ったのは、全羅道江原道だった気がする。このふたつの地域に魅かれたのはそこに悲哀があったからだ。

 全羅道は長らく政治的に不遇だった。南道の光州で悲しい事件があったのは1980年だから、そう昔のことではない。そして、光州は私の実父の生まれ故郷でもあった。

 一方、江原道には朝鮮戦争のときに避難してきた人たちが多く住んでいる。戦争が終わったら北側の故郷に戻りたいと38度線の近くに仮住まいしたが、願いかなわず、失郷民と呼ばれるようになった人たちだ。私の育ての母と産みの母(姉妹)はともにこの失郷民で、今は北朝鮮に属する黄海道から避難船に乗り木浦までやってきた。

 そして、この釜山はもっとも多くの戦争避難民が集まったところだ。ファン・ジョンミンが演じた『国際市場で逢いましょう』の主人公は私の母の分身でもある。

 

釜山庶民の暮らしを再現した像。左手は影島大橋、その向こうは影島

 チャガルチ市場を左手に見ながら海岸沿いを歩く。半分屋台のような酒場で少し感傷的な気分でソジュを流し込む。頭の中ではハーブ・アルパートの「BITTERSWEET SAMBA」が鳴り続けている。

 韓国で女が一人で飲んでいると、周りの客からいぶかしがられることが少なくないが、この店は以前にも訪れたことがあるので大丈夫。女将がなんだかんだと話しかけてくれ、常連扱いしてくれる。彼女の言葉の語尾から察するに全羅道の出身らしい。農村から釜山に働く場所を求めてきた人かもしれない。

 釜山はよそ者の町だ。昔から釜山にいた人、朝鮮戦争で半島各地から避難してきた人、慶尚道や全羅道の農村からの離農者、1948年の政情不安で済州道を離れた人などの混成部隊。解放(日本の敗戦)前までは日本人が多く流入し、解放後は日本人の多くが釜山港から故郷に帰って行った。

 人なれしているというのだろうか。ソウルの人と比べると、女が一人で酒を飲もうが何をしようが、あまり気にしない。この店はそれを象徴する空間だ。

 釜山駅から乗ったタクシー運転手さんの言葉を思い出す。

 「安東(貴族的自尊心)で生まれ、大邱(排他主義)に移ったあと釜山に来たけど、ここがいちばん暮らしやすいよ」

 釜山が都会だから住みよいと言っているわけではない。よそ者に対する釜山人の懐の深さ、おおらかさを言っているのだろう。

 女将ととりとめのない話をしながら、焼酎を2本も空けてしまった。今夜の寝場所も決めていないが、この辺りには船乗りがしばし羽を休める安宿がいくらでもあるから心配ない。

 

夜、人気が少なくなったチャガルチ市場の帰り道