2022年も3月11日がやってきました。縁あって宮城県石巻市の観光コンテンツ発信業務を請け負ったのが2018年の冬でした。それから約3年、震災から11年目を迎える「東日本大震災石巻市追悼式」に参加することになりました。取材当時にお世話になった石巻の皆さんと再会するにあたり、2018-2019にお届けした「石巻・牡鹿半島/絶景・美食・縄文」のアーカイブ記事をお届けします。
これら記事を取材した頃からまちはどのように変わったのか、その模様もサイト内で紹介しようと思います。

 

HISTORY OF OSIKA 

文と写真/編集部

 

  奥松島の宮城オルレを紹介した前回に続き、今回は石巻から牡鹿半島を西海岸沿いに南下し、鯨のまち鮎川、霊場金華山を目指した。牡鹿半島の歴史を辿りながら、震災で甚大な被害を受けた半島部の復興の様子をレポートする。
この記事は2018年12月に掲載されたものです。

 

「サン・ファン・バウティスタ」と「サンファン・ヴィレッジ」

 

 石巻市にあるホテル「サンファン・ヴィレッジ」は、東日本大震災後の2013(平成25)年4月にオープンしたビジネスホテルだ。地震と津波の影響を受けなかった頑強な岩盤の高台に建設され、海と緑に囲まれた自然豊かな約4000坪という広大な敷地を有し、宮城県慶長使節船ミュージアム「サン・ファン館」や「サン・ファンパーク」に隣接している。

 今回、牡鹿半島の観光資源を探る取材を行なうにあたって、このホテルを拠点にした。牡鹿へのアクセスが良好な半島の付け根に位置していて、石巻の市街地にも近かったからだ。「サンファン・ヴィレッジ」という名前の由来は、木造洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」にちなんでいる。江戸時代、支倉常長ら慶長遣欧使節団を乗せ、日本とイタリアを往復した船だ。この帆船は1993(平成5) 年に復元され、ホテルに隣接する「サン・ファン館」に係留されている。現在は船体の状況により船内への立ち入りは中止されているのだが、ミュージアムではこの船が辿った波乱万丈な歴史や大航海時代の帆船文化について学ぶことができる。とても気になる船だ。牡鹿の歴史を語る上で外せない存在と言えるだろう。

 

高台に建つホテル「サンファン・ヴィレッジ」。早朝から営業する食堂を備えており、復興工事の作業員たちにも多く利用されている。

「サン・ファン館」に係留されている「サン・ファン・バウティスタ」は、慶長遣欧使節団の月浦出帆380年にあたる1993 年に復元されたもの。現在は、船内への立ち入りは中止されている。

 独眼竜の異名を持つ仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長ら慶長遣欧使節団がローマを目指し、大航海に挑んだのは1613(慶長18)年。徳川家康が江戸に幕府を開いてからわずか10年後のこと。使節団一行を乗せて牡鹿半島の月浦を出帆した「サン・ファン・バウティスタ」は、太平洋を横断。メキシコ、キューバを経由した後、さらに大西洋を横断してスペインへと渡り、ローマのチヴィタヴェッキアの港に着いた。支倉常長は今から400年以上も昔に日本人キリスト教徒として唯一、ローマ貴族に列せられた。

 スペイン国王フェリペ3世、ローマ教皇パウロ5世への親書を携えて太平洋と大西洋という二つの大海原を横断した使節団の足跡を辿り、イタリアのチヴィタヴェッキアを紹介したエッセイが「TABILISTA」に掲載されている。ローマ在住のエッセイスト田島麻美さんの連載『ブーツの国の街角で』だ。支倉ら使節団が最初に踏んだイタリアの地であるチヴィタヴェッキアは2013年に石巻市と姉妹都市となり、日本人殉教者のために捧げられた教会も存在する。遥か東方の島国で起こった悲劇を今なお世界中の人々に語り継いでいる異国の港街のレポートもぜひ読んでみて欲しい。

「チヴィタヴェッキア : 支倉常長の足跡が残る港町」

 

チヴィタヴェッキアにある支倉常長像。「TABILISTA」『ブーツの国の街角で』(田島麻美)より