泉州地域を南部に走るのが、「JR阪和線」(以下阪和線)と「南海本線」(同南海線)だ。この2つの路線に、ほぼ沿っているのが「熊野街道」と「紀州街道」である。

 熊野街道は平安時代に一大ブームとなった「熊野詣」のアクセス道。一方の紀州街道は、江戸時代初期に整備された。つまり、熊野街道沿いの阪和沿線地域のほうが、南海沿線よりも早くに発展したことになる。

 この状況が逆転するのは戦国時代から江戸時代。もともと海に近い紀州街道沿いは、漁業と農業を営む地域が隣接していた。加えて、岸和田には城が築かれ、貝塚には「願泉寺」を中心とする寺内町が開かれる。泉大津は堺や大坂の問屋に運ぶ和泉木綿の集約所が設けられ、泉佐野では廻船業で富をなした「食野家」や「唐金家」「矢倉家」という豪商が誕生。いまは「近畿のお荷物」ともいわれる和歌山も、「御三家」である紀伊徳川家のおひざ元だ。

 和歌山城下と大坂をつなぐ紀州街道沿いは、大いににぎわった。このにぎわいは、廻船業や商業、手工業という産業を生み出すことになり、従事する人たちも増えてくる。岸和田藩の武士もいる。

 このように、紀州街道沿いの浜手には、いろんな境遇の人たちが混在していたので、他地域から流入する人を受け入れる土壌も整っていたのだ。

 方や山手側の主産業は農業だ。農作業は村人たちでほぼ完結し、庄屋以下のヒエラルキーも構築される。結束力が強い半面、よそ者を受け入れる意識は低く帰属意識が高い。この、いわゆる「村意識」が現在も受け継がれていて、「あそこの家は本家」「あの家は〇〇の分家」という声がいまだに聞かれ、元庄屋もしくは豪農の立派なお屋敷も現存する。

 この山手と浜手の差が、さらに顕著になるのは明治時代に入ってからだ。泉州地域では繊維工業が盛んとなり、工場の従業員や製品を船に積む港湾従業員として遠く九州沖縄からも人が集まってきた。物販業や飲食業、レジャー産業も活況を呈し、ますます人口は増加する。

 さらに、岸和田が市制になったのは大阪府下で3番目、泉大津は7番目、貝塚は9番目、泉佐野は14番目というように、泉州の市制施行は比較的早い。しかも、浜手の中心部に山手の町村が合併して市域をひろげている。そのぶん浜手、すなわち南海線沿線住民のプライドは高い。

 つまり、排他的で地元意識が強いといわれる泉州人だが、南海線側は阪和線側よりも、その傾向は強くない。ほとんどが農村だった阪和沿線と異なり、海あり町あり農村もあった南海沿線では、住民の構成も地域への意識もバラエティに富んでいたからだ。

 しかし、戦後の高度経済成長期になって状況に変化がみられるようになる。大阪万博が開かれるころの北摂地域の急激な発展に対して、泉州地域では繊維産業の斜陽化もあって勢いがおとろえ始める。とくに影響を受けたのが南海沿線で、にぎわっていた商店街や繁華街も寂れていく。

 逆に阪和沿線では、農地の宅地開発とインフラ整備によって新住民が増加。古い町がふたたび活気を取り戻し、新しかった町が古くなってしまった。

 この影響から阪和線の沿線住民は、古くからの気質を受け継ぎながらも新しいものに臆さない。だが、南海本線の住民は頑ななまでに保守的だ。それは、かつての栄華に対するプライドとノスタルジーに起因するものかもしれない。

18番まである天王寺駅のホームのうち、1~9番線が阪和線のホーム。大和路線と環状線も乗り入れているが、天王寺駅がターミナルなのは阪和線だけ。
天王寺駅は上町台地の高台に位置するため、出入口は地上、阪和線以外のホームに行くには階段を利用し、しかも地下ホームではないという地形高低差ファンにはたまらない構造となっている。駅舎のとなりに建っているのは、現在のところ日本一の高さを誇る「あべのハルカス」
日根野駅までは阪和線と同じ路線を走る関西空港線の車両には、関空行きの「関空快速」と和歌山行きの「紀州路快速」が同じ列車に併結されているものがある。その場合は日根野駅で切り離されるため、乗り間違いには注意が必要
阪和線和泉府中駅の近くにある泉井上神社は、第14代仲哀天皇の時代に創建されたとする古社で、本社以外に「和泉五社」の総社も鎮座。1605年に再建された総社の本殿は国指定の重要文化財であり、また境内には「和泉の国」の由来となった「和泉清水」も湧き出ている
和泉市や阪和線の主要駅である「和泉府中駅」の名前は、この地に国府がおかれたことに由来。泉井上神社の近くにある公園には、国府跡を示す石碑が建てられている