オミクロン株の蔓延がまだまだ暮らしに影を落としていた中、晴天の霹靂のようにロシアのウクライナ侵攻が始まった。専門家は「今始まったことではない」とか、「こうした行為に出ることは予測できた」とか、「たられば」的な議論を繰り返しているが、そんなことより重要なのは目の前にある現実。一般市民は、日々刻々と変化する状況にその都度対応しながら生活していかなければならない。
 ウクライナ侵攻からもうじき1ヶ月が経とうとしているが、欧州各国の庶民の暮らしぶりにも変化が出始めている。イタリア国内のウクライナからの避難民は既に5万人を超え、ガソリンは1リットルあたり2,36€(約311円)にまで高騰している。電気・ガス代も値上がり、小麦粉や食用油などの高騰・品不足も懸念材料となりつつある。それでも、近所のイタリア人と話をすると、「爆撃を逃れて来た人たちのことを思えば、値上がり程度のことは耐えられる」と口を揃えて言う。コロナ禍で悪化している経済に追い討ちをかけるような事態に陥っているが、皆この状況を比較的冷静に受け止めているようだ。戦時下であれ平時であれ、買い物に行き、洗濯をし、料理をして、食べて寝て、という人々の生活は続いていくものなのだ。
 もちろん、近隣諸国で戦争が起こっているとなれば、誰でも心が塞ぐし、理不尽に命を落としている人たちのことを思えば怒りや悲しみで胸が張り裂けそうになるのは当然のこと。そうした感情を胸に抱えた上で、命からがら逃れてきた人たちのために少しでも力になれれば、と大勢のイタリア人が支援を申し出ていることは少しの慰めになる。

 

小麦粉が品薄になりつつあるスーパーの棚。値上がりが予想されているので、安価の小麦粉だけが売り切れになっていた。
「種子油は一人2本まで」との注意書きがオイル売り場の棚に置かれていた。とはいえ、オリーブオイルは十分に在庫があり、値段も変わっていないので消費者はそれほど慌てていない。
支援・連帯の意志を示す街角に掲げられたウクライナ国旗

 ロシア軍のウクライナ侵攻が始まってから、インターネットをほとんど見なくなったのだが、SNSを遮断しても、必要な情報はどこかから必ず入ってくることがわかった。それまでは「情報を追う」ためにネットを活用していたが、いつの間にか、あふれかえる情報に「追われる」ようになっていたことに気づいた。フェイクニュースや大げさな見出し、いかにも「ここだけの真実」のような書き出しで始まる中身のない記事に朝から晩まで追われることに、正直うんざりしてしまった。そして、ネットの活字から距離を置くようになるにつれ、本棚の書籍の活字を追う時間が増えていった。どうしてだろうと考えて、ある時ふと気づいた。私が今読みたいのは、情報ではなく物語なんだ、と。
「小説やエッセイなど、一冊の本の中にはあなたが知らない誰かの人生が詰まっている」。大学時代に近代文学の教授が言ったこの言葉は、今でも私の頭に鮮明に焼き付いている。本を読むという行為は、私の想像の範囲を超えた人生を体験することなのだ。物語の中の登場人物は、苦しみや悲しみ、怒り、喜び、さまざまな感情を私たちに体験させてくれる。読者はその感情を共感することで、実際の自分の人生に必要な学びを吸収していくのだと思う。物語には、情報では得られない学びがたくさん詰まっているが、何より貴重だと思うのは、「共感」という力を養ってくれることだろう。私は常々、共感がないところに対話は成立しない、と考えている。そして対話が成立しなくなった時、人間はいとも簡単に暴力に打って出る。対話の必要性がますます重要になっている今、共感力を鍛えるためにも物語を読まなければ、とヒシヒシと感じるようになった。

 

書店の入り口に平積みされた戦争関連のたくさんの小説やエッセイ、歴史書

 飢えたように本を求めるようになって3週間。先日、朝から本屋さんへ足を運んだ。入り口付近には、過去のさまざまな戦争を題材とした小説やエッセイ、歴史書などが平積みされ、多くの人が足を止めて見入っていた。そうした本たちの横には、恋愛小説やミステリー、世界の古典文学から現代文学まで、あらゆるジャンルの本たちが仲良く並んでいる。本屋は世界の縮図なのだ、と改めて思う。
 気になった本をいくつか手にとり、店内のカフェに座って遅い朝食を摂った。一杯のカプチーノをゆっくりすすりながら、千差万別の状況下で今この瞬間を生きている世界中の人々に想いを馳せる。これまで当たり前のように感じていた朝の風景が、まったく別の意味を持って胸に迫ってきた。

 

カプチーノとチョコレートマフィンで朝ご飯をとりつつ、店内のカフェテリアで購入前の本をじっくり検討する