南海電鉄における主力路線の1つが高野線。難波駅を始点として岸里玉出駅を経由し、極楽橋駅まで通じる。

 ただし、正式な起点は汐見橋駅だ。にもかかわらず、岸里玉出駅~汐見橋駅間は現在、「汐見橋線」という支線状態になっている。詳細については、また別の機会に。

 

 高野線が通る大阪府の自治体は、大阪市、堺市、大阪狭山市、富田林市、河内長野市。大阪市と堺市の一部を除けば「南河内エリア」ということになる。ただ、同じ南河内でも近鉄南大阪線や長野線沿いとは少しおもむきが異なっている。

 南河内は歴史の古い地域であり、高野沿線も例外ではない。由緒のある寺社も多いし、日本最古のダム式ため池といわれる「狭山池」もある。高野山を目指す東西中下の高野街道は、中高野街道と下高野街道は大阪狭山市内で、中高野街道、西高野街道、東高野街道は河内長野市で合流。江戸時代には「狭山藩」の陣屋も設けられ、街道沿いには今も旧家が残されている。

 

およそ1400年前に築造されたとする狭山池。「古事記」や「日本書紀」にも、その名が記され、奈良時代や鎌倉時代、江戸時代にも改修が行われた。サクラの名所でもあり、2000年までは「さやま遊園」が隣接していた

市役所や狭山藩陣屋跡、狭山池にも近い「大阪狭山市駅」。さやま遊園が閉園になるまでの駅名は「狭山遊園前駅」で、一駅難波側には「狭山駅」がある

狭山藩1万石の陣屋跡。藩主である北条氏は、北条早雲を祖とする小田原北条氏(後北条氏)の末裔。後北条氏は氏直のとき豊臣秀吉の小田原征伐に敗れたが、叔父の氏規が秀吉に許されて家督を継承。氏規の子・氏盛が1万1000石で初代狭山藩主に就任する。狭山藩4代氏治のときに1万石に減封されたものの、狭山藩は明治維新まで存続した

河内長野駅の近くにある、東高野街道と西高野街道の合流地点。東高野街道は京都、西高野街道は堺が起点。なお、中高野街道は平野、下高野街道は四天王寺を起点とする。

 ただし、高野沿線が現在のような様相を見せるのは、新興住宅地として開発されてからなのだ。

 早くに開けた南海本線よりも、高野線界隈には手つかずの土地が比較的多く残されていた。高度経済成長期に入って住宅不足が懸念されはじめると、大阪市内へのアクセスもよい高野沿線が注目される。その後、宅地開発によって多くの住宅が建てられ、病院や学校、ショッピングセンター、道路も整備され、ベッドタウンとして発展していった。

 つまり、高野沿線は前回紹介した阪和沿線以上に、新旧の住民が入り混じった地域ということができるわけだ。