4月25日[MON]

 早めに羽田に着いたので、ロビーで『水乞い』(全4巻)を読む。ホラーチックだが、少年犯罪(には限らないが)について考えさせられる要素が詰まっている。飛行機の中ではネトフリ。「未成年裁判」を3話まで観る。全話、実際に起きた事件を題材にしているところも野心的である。ハマりそうな予感。こちらは少年事件専門の判事が主人公。ネトフリで司法ものはやはり韓国の「秘密の森~深い闇の向こうに~」にドハマりしたから二度目だな。しばらくは心の中には検事の「ファン・シモク」が棲んでいた。夜遅めに那覇に着いて、冷凍しておいた豆腐や野菜などを解凍して炒め、サバ水煮缶などと食べる。豆腐は冷凍しておくと不味くなることを再認識。

 

4月26日[TUE]

 

 午前中、昨夜と同じ解凍した島豆腐を野菜と炒めて食べる。解凍の仕方がだめなのか、不味い。原稿の直しをして送稿。午後からジャン松元さんと合流して、人気MCのひーぷーさんこと真栄平仁さんをインタビュー。稽古の撮影。復帰50周年を期して「72'ライダー」を取り上げる。前から観たかった芝居だ。1973年の「本土復帰」の翌年。沖縄出身の青年が国会議事堂の門にバイクで激突して即死するという事件が起きた。抗議の自殺と思われるが遺書はなかった。亡くなったのは上原安隆さん。その事件にこだわり続けて、真栄平さんは芝居を10年前に初上演、以来、数回だけ公演してきたが、今年は復帰50周年ということで再演をおこなうのだ。ぼくは事件にもかねてから関心があったが、真栄平さんの思いに興味があった。真栄平さんは役者としては出ない。役者は全員が、真栄平さんが運営するする芸能事務所「オリジン」の所属。今日が初めての通し稽古だという。上原さん役の平安(へいあん)信行さんともご挨拶。今回の取材をアテンドしてくれるのは役者の秋山ひとみさん。何から何までありがとうございます。秋山さんに、上原さんが激突死したときに被っていた上原さんの黒いヘルメットを持ってきてもらう。思ったより小さい。小柄な人だったようだ。ヘルメットの前頭部に鉄柵に激突した二本の線状痕が残っている。この傷跡に何を見出すのか。

 通し稽古(沖縄テレビのカメラも入っていた)を途中まで見せてもらいジャンさんと別れ、森本浩平さんと牧志で合流。浮島通りの台湾料理「華」で餃子センベロビーフンを頼んだら、沖縄の「ポーク」が入っていて笑った。沖縄に取材に来ている「ディスカバー・ジャパン」副編集長の今智子さんも合流。

 

4月27日[WED]

 午前中は原稿の直しに費やす。途中、書棚にあるはずの本を探す。しかし見つからないので買い直すことにする。かつては狂ったように探し続け時間を浪費していたが、今は自然とあきらめてやらないようになった。ついでに探している最中に同じ本が二冊あるのを何度も発見し、かるく落胆。

 午後からある人に追加取材して、県庁に行って玉城デニー知事絡みの資料を秘書さんに頼んでいたので、それをいただく。7月に刊行予定の拙著のタイトルは『誰も書かなかった玉城デニーの青春──もう一つの沖縄戦後史』(仮)になりそうだ。新書(光文社)なので手に取ってもらいやすい構成と値段にしたい。

 県庁の横にある帽子専門店「analogue」の前を通り掛かると好みの色のパナマ帽を見つけもとめる。さらにもうちょい足を伸ばして「ちはや書房」に寄った。店主の櫻井伸浩さんとゆんたくして、新崎盛暉さんの『沖縄返還と70年安保』(1968)、沖縄学生会の『祖国なき沖縄』(1968・最初の刊行は1954)、牧瀬恒二さんの『沖縄返還運動』(1967)をもとめる。コンビニで『モモト』50号の「復帰50年」特集も入手。途中、珈琲を飲んで涼み、安里まで歩く。途中、「高良レコード」の高良雅弘さんにばったり、ちょっと立ち話。まだ暖簾を出していない「すみれ茶屋」で地魚を焼いてもらうなどして晩飯。

 

4月28日[THU]

 今日はサンフランシスコ講和条約発効から70年。奄美群島や小笠原諸島、沖縄諸島が「日本」から切り離された日。沖縄では「屈辱の日」と呼ぶ。午前九時に起きて、昨日買っておいたゴーヤー弁当を温めて食べる。遅めの午後からパシフィックホテルに行き、ジャン松元さんと合流。批評家の仲里功さんに会う。真栄平さんが芝居にする、1973年に起きた上原安隆さんが国会のゲートにバイクごと激突させ即死した事件について。仲里さんは自著『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(2007)にそのことに触れているので、本棚から探し出して再読。

 そういえば、「沖縄タイムス」の与那覇功さんの日曜ニュースレター・コラム「戦さ場の哀れ コザの哀れ」(4月17日)をとても興味深く読んだので、一部を引用させていただく。まず、「コザ騒動」についての記述。

 
[(前略)ただの騒ぎでなく、暴力のニュアンスを含む「暴動」だとして、「コザ暴動」と呼ぶべきだという声もある。だが、「騒動」か「暴動」かを論議する前に、なぜ、その前に付く「コザ」という呼称に疑問を抱かないのか。
 もともと地元言葉ではない。「胡屋(GOYA)」や「古謝(KOJA)」といった地名を米兵らが誤って表記した「KOZA(コザ)」がそのまま定着したといわれる。いずれにせよ、米軍支配の名残だ。治外法権下では、沖縄人を殺しても「無罪」。今も事件・事故は絶えない。それでもなぜか、米兵がミスった名前を使う。
 巨大な米軍基地が存在するグアムは1998年、首都名を「アガナ」から、地元語に近い「ハガッニャ」に替えた。それに従い、日本の総領事館も改称した。国連はグアムを米国の植民地として認定しており、先住民族は自らの歴史を取り戻す運動の中で改名した。
 大東亜共栄圏が崩壊した後、中国や朝鮮でも、日本名を捨てた。アフリカや中南米でも、植民地時代の地名を変えている。つい最近、日本政府は、ウクライナの首都名をロシア語由来の「キエフ」から、ウクライナ語の「キーウ」に変えた。侵攻する側の表記は好ましくないからだという。
 国連地名標準化会議(UNCSGN)は、旧宗主国から押し付けられた地名、戦乱によって占領されていた地域の地名を改めたり、少数民族の古来の地名を保護するといった活動を後押ししている。それがワールド・スタンダードだ。]

 沖縄では「コザ」や「ライカムイオン」のように、学校名や施設名、地名などにアメリカ世の名前を残しているところが目につく。与那覇記者も[読者に叱られるだろうが、コザ生まれの僕は「コザ」を当たり前のように使う。]と書いている。

[「どこの人」と聞かれれば、「コザんちゅ」。「どこから来た」と聞かれれば「コザ」。「沖縄市」とは言わない。本土の人には、嘉手納飛行場というアメリカの大きな基地がある街でね、いわゆる基地の街、「コザ」というところです、と答える。「アメリカ文化があってね、ハーフもたくさんいて、ロックも盛ん」。ほとんどは「あぁ、聞いたことある」といった反応が返ってくる。

「観光地オキナワ」を演出するアメリカンタウン。「アメリカのカルチャーが世界の中で一番カッコいいし、進んでいる。世界のスタンダードはアメリカだ」。そんなことは当然という何げない意識、“常識”を共有している。よくよく考えれば、おかしな話だ。(中略) 沖縄では「ハンビー」や「ライカム」「マクラム」など米軍に関わる地名が行政用語となるだけでなく、ふだんの会話でも使われる。77年もの軍事支配・植民地支配に慣れきって、そのメンタリティーにどこか歪みがあるからだろう。

 世界でも類を見ないほど米軍基地が集中する理由、その割には反基地運動が紆余曲折を経る理由は、そのあたりにあるのかもしれない。琉球が奪われてきた歴史・文化を取り戻すには「しまくとぅば」だけでなく、地名の復興も大切だ。

 もちろん、「コザ」を名乗る自分自身にも、その「植民地精神」が深く染み込んでいることを自覚はしている。「コザ」は、専制者の文化に対抗して独自の文化を創ってきた歴史があるにせよ、いかんせん、いま一つ弱さがある。「基地経済」のどつぼから抜け出すには、いま一つエネルギーが足りない。]

 なる腑に落ちるかんじがした。考えさせられる。ひるがえって、客人であるぼくが「沖縄市」ではなく「コザ」と言ってしまうことをどう考えたらいいのだろう。