5月某日

 国際通りを歩く。様々な労組などが労組名を大書した旗をかかげて「日米安保粉砕」と叫びながら百人ほどのデモ隊となって歩いている。国際通りはそのせいで大渋滞を引き起こしている。脇道からの右翼の街宣カーが「おまえら、人のメイワク考えろ!キ○チガイ!キ○チガイ」と差別用語を連発している。不愉快な気持ちになる。

 

 ジュンク堂書店に歩いていって『越境広場──「復帰」50年 未完の問いを開く』をもとめる。店長の森本浩平さんと一階のカフェでゆんたく。そのあと、リスペクトする陶芸家・キムホノ(金憲鎬)さんと兼松春美さん、「陶 よかりよ」の灰谷明彦さん御夫妻と牧志の隠れ家的バー「kana」で晩飯。5.13~22まで「陶 よかりよ」でキムホノさんの個展「想天然色サーカス」が開催されている。作陶歴40年の中で個展は300回以上、「陶 よかりよ」では10回目。ぼくは──何度もお断りしたのだけど──「琉球新報」に展評を書くことになっている。

 一人の作家で50点以上持っているのはキムホノさんだけである。ご本人にお目にかかれて、感極まる。解散したあと、一人で「米仙」のテーブルで一人寿司をつまみつつ、余韻に浸る。映像作家の高山創一さんに声を掛けられたので、彼のいまの構想を聞かせていただいた。

 以下は「琉球新報」(5月19日付)に掲載された拙文。

[私がキムホノ(金憲鎬)氏の器を那覇・壺屋にある「陶 よかりよ」で手と眼で触れ、電撃が走ったようなショックを受け、そのまま虜になってしまったのは2012年のことだったと記憶している。象の鼻が腫れたようなかたち──私にはそう見えた──をした白色系のマグカップだと思う。以来、「よかりよ」で買いもとめるなどして、数えたことはないが、50点以上の器やオブジェを集めてきた。集めたというより、気がついたらそれぐらいの数になっていたというほうが正しい。たぶんこれからも増殖していく。陶器好きのぼくにとって、一人の作家の作品を次々と手元に置いていく「体験」はキムホノ作品以外ない。
私の生活にとって必要な「存在」になっていると言い換えてもいい。器はもちろん使っているし、私の日常の視界に入るところに何気なく置いているものもある。オブジェはうやうやしく鎮座させているわけではなく、仕事机の資料の間に置いてあったり、ときには文鎮がわりに使ったりもする。ほとんどの作品は常に同じ場所になく、日常の中を移動する。置きかたや置き場所が変わると、キム氏の作品は大胆に表情を変え、場と自身に作用する。時空に溶け溶け込むときもあれば、抗うときもある。
今回の個展は、「陶 よかりよ」のためだけに300個以上を作陶した。テーマは「昭和の色」。キム氏曰く「こういう色の出し方は初めてだった」と言うほど、全部が原色を独自の文様と組み合わせたテーブルウェアだが、同じ作品は一つとしてない。「よく似ている」ものすらない。「陶 よかりよ」の店内に足を踏み入れると、まさに「サーカス」のテント小屋の中に迷い込んだような錯覚に陥る。じっくりと、ときに手に取りながら見ていると、それは作品群の同一性を激しく拒絶する作家の意思が選ぶ側に伝わり、選ぶ側の「眼」を惑わせ、試めすメッセージが込められているようだ。
こんなことがあった。何年か前、「陶 よかりよ」に恐竜の頭部を模したような氏のオブジェがあった。値段がついていなかった。一目惚れして、これを欲しいと主に言うと、値段をどうするかキムホノ氏本人に電話した。「あれをほしいなんてバッカなやつがいるなあ」と作家は大笑いし、「値段は自分で決めさせよう」という話に落ち着いた。私はキムホノ氏から最大限のほめ言葉をいただいたと解釈し、熟考して値段を提示すると、「陶 よかりよ」の主と作家が相談して決めた値段の設定幅のど真ん中だった。キムホノ氏の「遊び心」に私は心酔した。
キムホノ氏と杯を交わす機会があった。作家は自らの出自に対して受けた社会からの差別や偏見に怒り、同調圧力に屈しやすい社会や人を憂いた。そして氏が抱きしめる「孤高」と「自由」の断片に触れることができたと思う。ちなみに私は同展でカップを一つ、購入した。]

 録画しておいた「報道特集」を観た。「国会爆竹事件と沖縄の今」。前回の日記で取り上げた「ウチナー口裁判」が取り上げられていた。逮捕され、被告となった三人のうちの一人の男性が初めてテレビの取材に応じていた。当時、「沖縄青年同盟」の活動家だった本村紀男さんである。リーダー的存在だった仲里効さんも出ていた。もう一人の女性とは関係は切れているという。

 

5月15日[SUN]

「復帰の日」。沖縄は梅雨にとっくに入っているが、今日も雨がしとしと。「琉球新報」を買う。1972年の紙面をまるまる使って、もう一枚「一面」を被せているのだ。つまり一面が二枚重なっているわけだ。50年前と変わらない沖縄というトーンで貫かれている。手放しで喜ぶような「復帰」50年ではないことは現状を見れば一目瞭然。数軒コンビニを回ったが、地元紙含めてほとんどが売り切れ。

 昨年秋に亡くなった写真家・勇崎哲史さんの追悼写真展「光の記憶」を県立博物館・美術館の県民ギャラリーへ見に行く。実行委員長は弟子にあたる石川竜一さん。勇崎さんは故・平敷兼七さんと親しかった。ぼくは平敷さんの娘・七海さんが経営するギャラリーで一度だけお目にかかったことがある。1949年に札幌で生まれ、2007年に沖縄に移住している。勇崎さんといえば──ぼくも持っているが──20年間、島民を撮り続けた『大神島 家族の記憶』(1992)が傑作だろう。

 その足でジュンク堂書店へ。ノンフィクションライターの安田浩一さん、「琉球新報」の松永勝利さん、小説家の深沢潮さんトークイベント「沖縄を書く・沖縄で書く──誰が何を書くか」があったので聴きに行く。安田さんや松永さんたちがつくった『沖縄の新聞記者』(2022)と、深沢さんの『翡翠色の海へうたう』(2021)の発刊を記念して開かれた。全員、知り合いなので、イベント終了後、開店間近の「米仙」に登壇者全員と岡本尚文さんと普久原朝充さんも交え、ちょい早めに入れてもらって乾杯。橋本倫史さんともばったり会ったので座に引き込んで飲む。キャンヒロユキさん家族が通り掛かったのでご挨拶。ヤラバーがでかい。安田さんと深沢さんは飛行機の都合で中座したが、入れ違いで森本浩平さんがやってきた。寿司屋のネタがなくなったので早めに閉店。ラーメン「武蔵屋」でかるく飲んでラーメンをすする。こうして「復帰」50年の日は過ぎた。

大神島
『大神島 家族の記憶』

5月16日[MON]

 中日新聞に月イチ連載している書評に『サンマデモクラシー──復帰前の沖縄でオバーが起こしたビッグウェーブ』(2022)を取り上げるために一気に書く。書いたのは沖縄テレビの山里孫存さん。一度だけどこかでご挨拶をしたことがある。

 用事があったので一人で泊の「串豚」へ。喜屋武満さん手作りのクーブイリチーと赤ウインナー炒め、黒ホッピー。帰りに「すみれ茶屋」にも寄り、本マグロを刺身で少し食べる。沖縄でこの時期だけしか喰えない。お持ち帰りで本マグロのカマを漬けにしたもの等をいただく。気分は献杯。というのは、社会学者のケイン樹里安さんが33歳の若さで世を去ってしまったのだ。お目にかかったのは一度しかないが、ある用事で頻繁に、訃報を知る直前までメールのやりとりをしていた。その過程のなかで本人から闘病していることを聞かされていた。その時点で生存率はきわめて低いことはわかっていたが、可能性にかけて治療をおこない、彼は気丈にふるまっていた。マイノリティ研究で鋭い発言をおこなっていて、ぼくはどれだけ彼にアドバイスや気づきをもらったことか。彼は関西から東京の三軒茶屋にある大学に就職したばかりで、三茶を案内するよと約束していた。やりきれない。合掌。

5月17日[TUE]

 雨。昨夜、すみれ茶屋の玉城丈二さんがお土産にもたせてくれたつけダレにつけ込んだ鶏肉野菜といっしょに焼いて食べる。漬けにした本マグロのカマも蒸し焼きにして喰った。原稿のゲラを直したり、取材依頼の許諾を待っているうちに時間が過ぎていく。夕方に作家の仲村清司さんがやってきた。週に一回の沖縄大学の授業のために、授業日の前日に拙宅に泊まりにやってきたのだ。仲村さんが荷物をほどいたあと、二人で小雨のなか泊まで歩き「串豚」へ。京都に移住する前、彼はこの店の前に住んでいたので毎日のように来ていた。京都に移ってからはなかなか来れないので、常連さんたちの消息を聞いていた。仲村さんが通っていたころの常連たちは引っ越すなどして、ほとんどいまの常連の顔ぶれは変わっていた。そのあと、牧志のクラフトビール専門店「浮島ブルーイング」に寄って、主の由利光翠さんとゆんたくしながら、極上のビールを味わう。