8月5日(FRI)

 

夜、遅くに那覇空港着。二か月近くのはりつきの仕事が終わったので、終わった翌日にやってきた。抗原検査キットを何回か分、鞄に入れてきた。疲れていたのでどこかに食べに行く気力がわかず、空港のコンビニで売れ残っていた惣菜や弁当を買い込んで、自宅でビールを飲みながら食す。

それにしても、6月18日配信の「文春オンライン」の真山仁さんの[「味噌汁は蛇口から出てくると思っている」「バースデーケーキの意味が分からない」… 沖縄と本土の“ネグレクトの違い”を生んだ衝撃の理由]と題された文章がずっと引っかかっている。真山さんともあろう方が ─悪意は感じられないが─ こんな偏見的印象論としか読めない文章を書くなんて。

まず、沖縄で子どもの貧困問題に取り組んでいる山内優子さんの、「本土のDVの大半は、教育=しつけから始まる場合が多い。叱るだけでは効果のない我が子に対して、“しつけ”のつもりで暴力を振るい、それがエスカレートして死なせてしまうケースです。ところが、沖縄では、そういう例は珍しい」(中略)、「まずは無関心。しつけをしたいと思うほど他人に関心がないし、人の心配をする生活の余裕もない。だからネグレクトが多くなります。暴力をふるうときも、それは粗暴な八つ当たり。自分のストレスのはけ口として、弱い妻や子どもを殴る。そのため、執拗な暴力によって殺してしまうという例が少ない」というコメントを冒頭に紹介している。

そうだろうか。現場で活動をしている山内さんならではの感じ方なのだろうが、子どもに対するドメスティックバイオレンスに沖縄と「内地」に質的の差異があるとはぼくは思えない。沖縄へ好奇の目が集まるような煽るような視線。

[親に料理を作ってもらった経験がなく、味噌汁は水道の蛇口から出てくると思っている子、誕生日を祝ってもらったことがなく、バースデーケーキを用意しても、その意味を知らない子もいる。また、ある施設は、家族が家事をしてくれない子には、自分たちで服を洗濯させて、それを着て、家に帰すようにしている。]

と、伝聞したような話として真山さんは書いているが、日本全国で起きている問題をあたかも沖縄特有の問題にすりかえるような書き方にぼくには読めてしまう。たしかに沖縄の子どもの貧困状況は深刻だ。ぼくも沖縄で、「崩壊」している家庭の子どもたちの「居場所」づくりをしているNPOのお手伝いをしているが、さすがに「味噌汁は水道の蛇口から出てくると思っている子」の話は聞いたことがない。仮にぼくが聞いたことがないだけにしても、ごくごく一部のことだろう。百歩譲ってもそんなふうに考えている子どもは日本中にいるだろう。それをクローズアップして沖縄の「一般論」的にすりかえていくことがぼくには不愉快なのである。

1971年に公開された「モトシンカカランヌー」の共同監督で、ぼくもずいぶんお世話になった井上修さんの訃報を6月に聞いていた。映画の紹介含めて、井上さんのインタビューも拙著『沖縄アンダーグラウンド』におさめさせていただいたし、拙著刊行がきっかけになり、「モトシンカカランヌー」が再評価され、いっしょに上映後トークを何回もおこなったりした。井上さん、ありがとうございました。合掌。

 

8月6日(SAT)

朝、バルコニーに出てみると、数十メートル先の二階建ての赤瓦の木造古民家が解体されている真っ最中だった。何年も人が暮らしている気配がなかったけれど地域のランドマークの一つが消えた。午前中はバルコニーの枯れ葉などの掃除やら、東京から送ってきた荷物を仕分けして過ぎていく。昼にモノレールで「てだこ浦西」駅まで行って久々に「BOOKS じのん」で天久斉さんとゆんたく。比嘉豊光さんの写真集『全軍労・沖縄闘争』(2012)、さいきん亡くなった森崎和江さんの『からゆきさん』(1976)、G・ガルシア=マルケスの『迷宮の将軍』(1991)をもとめる。そこからタクシーに乗り、沖縄市の「沖縄市民小劇場あしびなー」へ「民宿チャーチの熱い夜20」を観劇に。これから取材をする人が出演しているからだ。芝居に「20」とつくのは20回目という意味だ。観たあとは、胡屋十字路まで歩き、インド料理店の「アーユルヴェーダ」でビールとチキンティッカとマトンサグワラ、プラオという名だったかな、インド式焼き飯を喰う。客はぼく一人だったが、店主に「前に一度、来たことある?」と聞かれる。「はじめてですよ」。しばらくすると、米兵か軍属かわからないが、それほど屈強そうな体躯ではない白人と黒人の若者グループがノーマスクでやってきた。常連みたいだ。ぼくは食べ終わると、繁華街のど真ん中にあるホテルにチェックイン。ニュースを観ているうちに寝てしまった。

 

 

 

8月7日(SUN)

ホテルをチェックアウトして、胡屋十字路の上間てんぷら店で、野菜炒めや唐揚げが乗っかったちいさめの弁当とお茶を買い、店の前のベンチに座って喰う。さきほど数人のグループが道路を掃除している光景に出合ったが、このゲート通りも掃除をしているのだろう、夜の喧騒からして翌朝はそうとうのゴミが散乱していてもおかしくないのだが、ゴミがほとんど落ちていない。手作りソーセージの「TESIO」の横なので、オーナーの嶺井大地さんが出勤してくるかなあと思っていたら、案の定、「藤井さーん、なにしてんですかあ」と彼の声がした。話すのは久しぶり。そのあと、タクシーで沖縄県総合運動公園前のコンビニへ。カメラマンの関康隆さんと合流。レンタカーが一日数万円する時節だが、キャンセルが出たようで通常よりちょっと高めの金額で借りることができたようで、彼は那覇からやってきた。

そこに取材相手が登場。近くの海岸で釣りをしているシーンをみんなで膝まで海に入って撮影。快晴で気持ちがよい。海岸の岩場を歩いていたらもともとぼろぼろだったビルケンシュトックの草履が壊れ、すぐにぬげそうになるのでゆっくり歩くはめになる。取材相手の実家がすぐ近くなので、そこで二時間ほどインタビューをさせていただく。お母様に大量のゴーヤーをいただいてしまい、恐縮。

取材相手は今夜、東京に発つので、荷物をぼくらのレンタカーに乗せて、もう一カ所、彼の生れ育った首里の周辺で撮影。そのあと、フライトまで間があったので、牧志のアーケード街にある「大衆酒場屋シーサー」でセンベロ。店主が取材相手に「後輩です」と言って挨拶していた。店の前の屋外テーブルで飲んでいた親子連れは取材相手に記念撮影を頼んでいた。

そこから「浮島ブルーイング」で絶品のクラフトビールを何杯か飲んでいると、取材相手がかつて組んでいた漫才コンビの男性が合流してきた。米軍基地労働者として20年働いているという。そのあとはお決まりのセンベロ寿司「米仙」。オープン直後なのに満席状態。さっそく取材相手に気づいてはしゃいでいる人たちのテーブルが。沖縄は芸能人との距離が「近い」のだなあ。

破損した草履をぼくが引きずるようにしてはいていたから、取材相手の元相方がぼくの歩き方が不自然なことに気づいてくれて、なんと付近の島草履屋で島草履を買ってきてくれた。こういうのが、心にしみる。感謝。「米仙」には石垣牛とウニをのせた、ぼくが「痛風握り」と勝手に命名している逸品があるのだが、スリッパになぜか元相方は「痛風」とマジックででかでかと書いて渡してくれた。意味はないけどオモろい。そうこうしているうちに取材相手のフライト時間が迫ってきてしまい、関さんがレンタカーで空港まで送ってくれた。ぼくと元相方と栄町の「福岡アバンギャルド」でもう一杯だけ飲んだ。

 

8月8日(MON)

かるく二日酔い。『誰も書かなかった玉城デニーの青春─もう一つの沖縄戦後史』(光文社)の見本10冊が届いた。手に持ったかんじがいい。政治性にはほとんど触れず、彼の少年期・青年期を沖縄戦後史と重ね合わせたオーラルヒストリー・ノンフィクション。その他の荷物を受け取ったり、部屋の掃除、洗濯。洗濯中に洗濯機がついに壊れてしまった。前々からだましだまし使っていたのだが、ついに寿命か。新都心の家電量販店へ洗濯機を買いに出かけ、いちばん安いやつを買った。

夕刻に、たまたま取材で那覇に来ていたライターの尹雄大(ユン・ウンデ)さんと合流。今日もセンベロ寿司「米仙」に足が向かう。したたかに酔う。彼は近々、京都から郡上八幡へ短期移住するそうだ。流浪の書き手だな。