■40年ぶりのパス・サッカー

 日本のサッカーは1920年代の初めにビルマ(現ミャンマー)人留学生のチョウディンの指導を受けた頃からショート・パスをつなぐスタイルで発展してきた(チョウディンは、パス・サッカーを発展させたスコットランド人からサッカーを学び、それを日本に伝えたのだ)。

 日本は、その後も強化を続け、1936年のベルリン・オリンピックではパス・サッカーと運動量を武器に強豪スウェーデンに逆転勝ちするまでになっていた。だが、その後、日中戦争が激化したため、1938年のフランス・ワールドカップではオランダ領東インド(現インドネシア)との予選を棄権。さらに、1940年に予定されていた東京オリンピックも開催を返上。戦争では何人もの代表クラスの選手を戦争で失うとともに、若手育成の流れが途絶えたため戦後は弱体化。「パス・サッカー」という日本の武器も失っていたのだ。

 その「パス・サッカー」というスタイルを取り戻したのが、この香港でのスペイン・ワールドカップ予選大会だった。

 この時期に、優れた若手選手が育ってきたのは偶然ではない。

 1964年の東京オリンピックのために西ドイツからデットマール・クラマー・コーチを招聘した日本代表は、資金と時間をかけて強化を続け、東京オリンピックでは南米の強豪アルゼンチンを破り、さらに4年後のメキシコ大会では銅メダルを獲得。1965年に日本サッカーリーグ(JSL)が発足したこともあって、1960年代後半にはサッカー・ブームが訪れ、多くの少年たちがサッカーに親しむようになったのだ。

 ちょうど、その頃にサッカーと出会った少年たちが、1980年には20歳前後になっていた。

 また、ペレを擁したブラジル代表が圧勝した1970年のメキシコ・ワールドカップの全試合が東京12チャンネル(現テレビ東京)の『ダイヤモンド・サッカー』の枠で録画放映されたことも大きな刺激となった。ブラジル選手のテクニックを目の当たりにした日本の指導者の中には、ボール・テクニックのレベルの高い選手を育成しようという試みを始める者もいたのだ。

 金田や木村を育てたのは、1969年に千葉県検見川で開かれたFIFAコーチング・スクールでライセンスを受けた松田輝幸監督だった。また、街をあげて選手育成に取り組んでいた静岡県清水市から羽ばたいたのが風間八宏(高校は清水商業高校)であり、将来のプロ化を目指して作られた日本初の育成型クラブ、読売サッカークラブでジョージ与那城やルイ・ラモスらに揉まれて育ったのが、戸塚哲也や都並敏史だった。

 

FIFAワールドカップ アジア一次予選第4組
日本代表
監督:川淵三郎 
コーチ:森 孝慈 
トレーナー:妻木充法

GK          年齢 CAPS
加藤 好男 古河電工  23歳  3
鈴木 康仁 ヤンマー  21歳  0
DF
前田 秀樹 古河電工  26歳 40
須藤 茂光 日立製作所 24歳  5
菅又 哲男 日立製作所 23歳  3
山本 昌邦 国士館大学 22歳  0
坂下 博之 筑波大学  20歳  0
越田 剛史 筑波大学  20歳  0
都並 敏史 読売クラブ 19歳  0
MF
岡田 武史 古河電工  24歳  3
金田 喜稔 日産自動車 22歳 26
副島 博志 ヤンマー  21歳  3
戸塚 哲也 読売クラブ 19歳  0
田中 真二 中央大学  20歳  0
風間 八宏 筑波大学  19歳  0
佐々木博和 松下電工  18歳  0
FW
横山 正文 新 日 鉄 24歳  9
長谷川治久 ヤンマー  23歳 10
木村 和司 明治大学  22歳  8
原  博実 早稲田大学 22歳 12

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