■イングランド協会(FA)とユニホーム広告

 だが、歴史の変化は避けられないとしても、同時に起こるものでもない。1976年1月、イングランドのセミプロクラブ(92クラブからなる「フットボールリーグ」外)の「ケタリング・タウン」が、白いそでのついた赤いユニホームの胸に大きく「Kettering Tyres」という地元の自動車修理工場の企業名を載せて「サウザンリーグ」のバース・シティ戦に出場した。

 当時の監督兼クラブ社長という立場だったのがデレク・ドゥーガンである。北アイルランド代表、そしてウォルバーハンプトン・ワンダラーズのエースとして長く活躍した「レジェンド」が、クラブ財政を立て直すために手をつけたのがユニホーム・スポンサーさがしだったのだ。契約金は「1000ポンド」と言われた。当時のレートで1ポンドは約620円だったから、62万円程度だっただろう。しかしセミプロのクラブにとっては無視できない大金だった。

 欧州でユニホーム広告が広がっているのを見て、イングランド協会(FA)はいち早く手を打っていた。1972年にユニホーム広告を禁じた規則をつくったのだ。この規則に従ってケタリング・タウンに「スポンサー名をはずせ」と命令すると、ドゥーガンはこんどは「Tyres」の部分を「T」とだけ記したユニホームをつくった。そして「TはタウンのT」とうそぶいた。その容貌と強いパーソナリティーから「ウルブスの怪人」とまで言われた男の面目躍如だった。だがFAも負けていなかった。「はずさなければ1000ポンドの罰金」と通告してきたのである。FAが1972年の規則を廃止し、ユニホーム広告を認めたのは、翌1977年のことだった。

 こうして、ユニホーム広告は解禁され、一般化するようになる。欧州では1990年代にはいってテレビの「デジタル多チャンネル化」が進み、「キラーコンテンツ」をめぐる激しい争いからテレビ放映権料が暴騰してサッカーにケタ違いのカネが流れ込むようになる。しかしそれまでの10数年間、クラブを支えたのは、ユニホーム広告からの収入だった。そしてサッカーが「テレビ・スポーツ」になるとともに、ユニホーム広告の「媒体価値」も急上昇していく。

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5
  6. 6