――手倉森ジャパンは、戦前の予想を覆してリオ五輪の出場権を獲得しました。

「U -23日本代表の五輪予選には団長として帯同していました。非常に根気よく、しっかりと相手を分析して、計画的に戦った成果だと思います。例えば南野(拓実)選手は、U -19日本代表の時には世界と戦った経験がほとんどないままアジア予選を戦った。それで北朝鮮に敗れてしまった。今はご覧になって分かるように、1戦1戦良くなっている。もちろん世界との差はどうなのか、まだわかりません。でも、少なくともアジアではチャンピオンになる力をつけてきた。だからこそ私は若いチームに世界の経験を積ませるべきだと思うのです。そういう意味で『育成日本の復活』を強調していきたい。1999年のU -20世代と今の同世代と比較できないにしても、中田英寿、宮本恒靖らの代は相当海外へ行き、私も同行しました。今の比ではないくらい行かせた。だから1999年のワールドユース(現U -20W杯)の準優勝は偶然から生まれたわけではありません。しかもトルシエ監督という、しっかりとした基礎を教える監督がいた。そこで鍛えられた選手たちはワールドユースで準優勝し、後の日本サッカーを10数年以上引っ張った。若い頃に海外を経験する重要さは計り知れません。アンダー20の選手たちにとって、アジアのU-20W杯予選が初めての国際経験だなんてことは、あってはいけないことです」

――『世界基準』ということで、西野技術委員長も岡田副会長も「止める、蹴る」の基本技術のレベルアップを指摘していました。

「今の選手は全く遅いですね。基本をもう一度、再認識する必要がある。我々はアカデミーでずっと指摘してきました。批判があったのも事実です。『止める、蹴るだけじゃダメだ』とか、『もっとドリブル突破を指導しろ』だとか。もちろんドリブル突破がダメだということではありません。ただ、まずは止めて、蹴る。それを動きながら正確に、速い判断でできる。選手の育成は、将来Jリーグに行こうが海外へ行こうがベースは同じだと思います」

 

※第2回に続く

(この記事は2016年4月28日に発行された『サッカー批評80』(双葉社)に掲載されたものです)

たしま・こうぞう

1957年熊本県生まれ。浦和南高-筑波大-古河電工を経て25歳で現役引退、指導者の道へ。1994年~日本サッカー協会(JFA)の強化委員会に入り、2002年~JFA技術委員会委員長。2006年~専務理事。2010年~副会長を兼任。2011年~AFC理事。2015年~FIFA理事。そして2016年3月、第14代日本サッカー協会会長に就任。

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