●渋沢とフリーメイソンを結び付けた人物は2人いた!

 

 1867年、フランス・パリ万国博覧会が開催されることになり、幕府もこれに参加を決定。それに合わせて、将軍・徳川慶喜の名代として、実弟の昭武がフランス皇帝・ナポレオン三世に謁見し、そのまま欧州遊学することとなった。渋沢はその随行員として大抜擢され、フランスに渡ることになったのだ。

欧州派遣団。後列左端が渋沢

 そして、この欧州派遣こそが、「渋沢はフリーメイソン、特にその中で絶大な力を握っていたロスチャイルド家に操られていた!」という都市伝説の源なのだ。この当時のロスチャイルド家については第4回の中編で詳細に触れるが、このまことしやかな伝説によれば、欧州派遣の際に”ある人物”を通じてロスチャイルド家と繋がりができ、帰国後は彼らのプランに従って、日本経済をグランドデザインし、その一環として日本銀行も設立したという。

 そこでこの第3回では、この”ある人物”について話を進めるが、渋沢とフリーメイソンを結び付けたと疑われる人物は、実は2人いる。一人は読者の皆さんもよく知る、ある歴史上の人物とかかわりの深い人物だ。

 

●欧州派遣の船上で渋沢が出会った謎の人物とは……

 

 1867年2月、欧州派遣団は横浜から船で旅立ったのだが、その船上で渋沢は一人の人物と出会う。派遣団の通訳として同行したその人物が、アレクサンダー・フォン・シーボルト。苗字でピンと来た読者も多いだろう。ドイツ系オランダ人医師で博物学者でもある、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男だ。

 このシーボルト(父)、日本史の教科書では「詳細な日本地図を持ち出そうとして、スパイ疑惑で国外追放された」という、いわゆる「シーボルト事件」で名前が挙がる。しかし、教科書には絶対書かれないが、彼は実はフリーメイソンのメンバーだったことが判明している。また、一説には同じくフリーメイソンのメンバーだったペリー提督に日本の情報を流したのもシーボルト(父)で、もともとそのためのスパイ行為だったとの説もあるのだ。