●渋沢はフリーメイソン人脈を何に利用したのか?

 

 フリュリ=エラールを通してラファイエットの流れを汲むフリーメイソンとも渋沢が関りをもっていたとすると、第5回中篇で紹介した1909年(明治42)の渡米も、また別の意味をもってくる。

 日米友好を目的とした渡米実業団だが、そもそものきっかけは当時の米国で急速に浮上していた日本人排斥運動、いわゆる黄禍(こうか)論にあった。その状況でアジアの新興国・日本の実業団が、なぜ全米の政財界や一般市民から熱烈な歓迎を受けることができたのか?

 

●フリーメイソンゆかりの施設でメンバーと会談!?

 そこにはマスコミや世論を誘導するだけの力がある組織、つまりフリーメイソンの助力がなければ実現できなかっただろう。

 事実、渡米実業団を自ら出迎えたタフト大統領はフリーメイソンのメンバーであり、歓迎会が開かれたのはミネソタ州ミネトンカ湖畔にある「ラファイエット倶楽部」。そもそも、ジョージ・ワシントンやベンジャミン・フランクリンなどアメリカ独立戦争の中心人物はフリーメイソンのメンバー。ラファイエット義勇軍もその人脈で参戦したもの。つまり、アメリカにはラファイエットに繋がる欧州のフリーメイソンとの固い絆があったのだ。そのラファイエット人脈に繋がる渋沢率いる渡米実業団も、全米のフリーメイソンが支援するという明らかなメッセージとして、会談場所にここが選ばれたと考えてもおかしくはない。

 

●渋沢の後半生を彩るフリーメイソン人脈

 渋沢は後半生を民間外交に捧げたが、その時、「自由・平等・友愛・寛容・人道」という信条を掲げるフリーメイソンが力になったのは想像に難くない。実際、渋沢は数々の世界的著名人とも交流しているが、その中の少なくない人物がフリーメイソンのメンバーだったのだ(例えば、日露戦争の戦費の大半を融通した銀行家、ジェイコブ・シフを自邸に招いているが、彼もフランス系のフリーメイソンだ)。