鎌倉時代で最大のテロ事件とも言える「曽我兄弟の仇討ち」。大河ドラマでは「曽我事件」として曽我十郎・五郎兄弟はじめ、人間関係や事件の背景などを丁寧に描いている。単なる仇討ちではなく、最終的な狙いは源頼朝(演・大泉洋)の首だったとか、陰で曽我兄弟を操っていたのはドラマの主人公、北条義時(演・小栗旬)の父で、頼朝の義父でもある北条時政(演・坂東彌十郎)だったとか、いまでも事件の真相や本当の黒幕を巡っては謎が謎を呼ぶミステリアスな事件だ。
■「神の鹿」を射ち殺しそうになり天罰が下る?
しかし、そんな事件自体のミステリアスさもぶっ飛んでしまうような奇妙極まりない怪事件が伝えられている。まず一つ目の怪異が記されているのは『吾妻鏡』(注1)第十三巻、建久4年(1193)5月27日の記事だ。5月8日から富士山の裾野で「曽我事件」の現場となる巻狩りが行なわれていた。そのさなか狩場に「比類無い大鹿」が現れ、頼朝の命で弓の名人、工藤景光が射止めようとしたという。
注1/頼朝から第6代将軍までの事績などを記した歴史書。幕府中枢部に近い人間が記録したほぼ公式記録に近いものとされている。ただし、なぜか怪異を記した文章が頻出(その辺はまた別の記事で)。
この工藤景光、御年70過ぎで60年以上狩りをしてきた大ベテラン。しかし、何度射ても当たらない。景光は「これは山神様の眷属(神の遣い)の鹿に違いない。(山神様の祟りで)私の寿命もこれまでだ」(意訳)
と呆然自失となってしまった。これだけなら「鎌倉殿の前で失敗して悔しかったね」で終わるところだが、その晩、本当に景光が病に倒れてしまい、頼朝自身「こんなヤベえ怪異が起きた以上、巻狩り中止にしない?」(かなりの意訳)と震え上がったとされる。
頼朝ビビりすぎだろと思うなかれ、実は、この頼朝の予感は当たっていたのだ。というのも、この翌日5月28日こそが「曽我事件」の当日。それゆえ、神の鹿が現れたのも、この事件の予兆だったのではと後に囁かれたという(注2)。
注2/このほかにも『吾妻鏡』には、曽我兄弟に討ち取られることになる工藤祐経の家に「怪鳥」が飛び込んだり(1月)、験が悪いと新築したばかりの家が焼け落ちたり(4月)と、不吉な予兆が記録されている。さんざんですね祐経さん。
■「やればできる!」で大猪退治も、その正体は山神様だった!?
さらに『曽我物語』には同じく5月下旬、こちらは曽我事件当日の昼のこととして「第二の怪事件」が記されている。
こちらの中心人物は仁田四郎忠常(演・ティモンディ高岸宏行)。曽我事件では兄の十郎を討ち取った豪傑として知られる人物だ(なお、『曽我物語』での表記は「新田」)。
こちらでは矢が二本刺さったままの怒り狂った大猪(イメージとしては『もののけ姫』の乙事主?)が山から頼朝目指し、牙を剥いて駆け下りてきた。鎌倉殿の大ピンチ!と、弓を構える間もなく仁田は大猪に飛び乗り、腰刀で何度も腹を刺してすんでのところで退治に成功。
「やればできる!」と仁田四郎が言ったかどうかは知らないが、頼朝はじめ見ていた人は大喝采。ここまでなら、その晩の曽我十郎退治(?)と合わせて大殊勲の二連発でよかったね、というところだが、実はこの仁田四郎、後々、悲惨な最期を遂げることになる(ネタバレになるので詳細は伏せます)。
その末路から「この時に殺した大猪が実は山神で、その祟りで無残な死を迎えた」という伝承が残っている。山神の猪を退治して死の呪いを受けるって『もののけ姫』のアシタカかよ! とツッコミが入りそうな伝説だが、仁田四郎はこれ以外にも罰当たりな伝説が残っているので(注3)、あちこちで祟りを受けがちな性格(なんだそれ?)だったのか、よほど理不尽な最期と当時の人も思ったのかのどちらかだろう。
注3/もう一つの「仁田四郎罰当たり伝説」についてはまた別の記事でご紹介します。