■#全部後白河のせい 平安末期~鎌倉初期の戦乱を演出した男

中世日本きってのトリックスター・後白河法皇。すでに肖像画からも一筋縄ではいかない雰囲気が……

『鎌倉殿の13人』の放送初回からうさん臭い雰囲気満点で暗躍(時には文字どおり暗闇で生き霊となってw)してきた後白河法皇(演・西田敏行)。平清盛(演・松平健)→源義仲(演・青木崇高)→源義経(演・菅田将暉)→源頼朝(演・大泉洋)と、次から次へと甘い言葉ですり寄っては切り捨て、源氏VS平氏はたまた源氏内部での殺し合いを“演出”してきた。

 数々の悲劇も元を辿ればこの怪人物の仕掛が原因で、もはや「#全部後白河のせい」とハッシュタグをつけたくなるところ。当時の人々も当然腹に据えかねたようで、有名な「日本第一の大天狗」というあだ名(?)も実際に源頼朝が後白河法皇の側近に宛てた書状に書いた言葉だという(注1)

注1/『吾妻鏡』第四巻、文治元年(1185)11月の項では、源義経に「頼朝追討」の院宣を与えた言い訳をしにきた後白河法皇の側近、高階泰経に投げつけた言葉として記録されている。

 考えてみれば、頼朝の祖父・為義が死んだのも、父の義朝が非業の死を遂げたのも、自分が伊豆に流されたのも、弟の義経を殺すハメになったのも、ぜーんぶ後白河のせい(注2)。幽閉か島流しのひとつもしてやりたいところを、悪口だけで済ませた頼朝の忍耐力(なのか?)に頭が下がるところだ。

注2/祖父である源為義が頼朝の父(つまり実の息子)である義朝の手で処刑されたのは保元の乱。その義朝が非業の死を遂げ、頼朝が伊豆に流される原因になったのは平治の乱。ともに原因は後白河法皇。

 

■「守り抜かれよ……」とは何を指していた?

大天狗のイメージとしてはこんな感じ? 歌川国芳が描いた、源義経に教えを授ける鞍馬山の大天狗と眷属の烏天狗たち

 さてさて、源氏や平氏を手玉に取った「大天狗」も歳には勝てず建久3年(1192)3月、66歳で崩御。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後を継いだ後鳥羽天皇(演・菊井りひと)に向かって「守り抜かれよ……」との言葉を残した。

 普通に考えれば「源氏のやつらから都を守れ」あるいは「武家の連中から政治権力を守り抜け」といった意味合いだろう。実際、平安末期から鎌倉初期を生き抜いた僧侶・慈円(注3)は著書『愚管抄(ぐかんしょう)』で、

「日本国の乱逆(らんげき)と云ふことはをこりて後、むさの世になりける也」

(国中で反乱や謀反がブームになって以来、武家が支配する世の中になってしまってツラタン/超意訳w)

注3/ちなみに慈円(じえん)は、保元・平治の乱の公家方の中心人物、藤原忠通の息子で九条兼実(演・ココリコ田中直樹)の弟とエリート一家の出身で、自身も天台座主(天台宗のトップ)も務めた人物。

 と嘆いているほど。この一文は頼朝一族の悲劇が始まった保元の乱について評しているので、まさにその時代から鎌倉幕府成立まで朝廷や公家社会のトップとして率いてきた後白河法皇にしてみれば、「武家の連中なんぞ利用してなんぼ。なんとしても天皇中心の世界を再生し……そう“ニッポンを取り戻す!”だ」と権謀術数を巡らしても致し方ないところ。

 ならば遺言の「守り抜かれよ……」も(武家の連中から)のニュアンスでいいんじゃないのと思うところだが、事はそう簡単ではない。後白河法皇が後半生を通じて心底恐れ続け、しかも、「都も朝廷も日本もぜーんぶ、ぶっ壊ーすッ!」と宣言していた“最恐の人物”が存在したのだ──。