■「あの光はなんだ!?」探検隊が洞窟の奥で遭遇したものとは……

たいまつを片手に洞窟の中で襲い来るコウモリの大群と苦闘する仁田忠常。この後、あわや探検隊全滅のピンチに遭遇することに。

:月岡芳年『新形三十六怪撰』より

 頼家から宝刀を賜って郎党5人を従えて謎の洞窟「人穴」へと突入した仁田忠常。『吾妻鏡』の記述によれば、3日に洞窟へ入った探検隊は日が暮れても帰還せず、翌4日の巳の刻(午前10時頃)にやっと戻ってきた。但し、帰ってきたのは忠常と郎党一人だけ。

『吾妻鏡』建仁三年四日の項には忠常の詳細な報告が載っているが、それによれば、

「穴が狭くて引き返せず、ひたすら進むものの、たいまつが頼りの暗がりの中、数千万のコウモリに襲われ、途中から足下は水が流れてずぶ濡れ。精神的に限界になりそうになりながら、大きな川にぶち当たる。

 激流で渡ることもできず探検隊は万事休す。しかも、対岸に怪しい人影が見えたかと思った瞬間、郎党4人が即死(死因不明)。この怪しい人影は何らかの霊的存在で、その言葉に従い川に宝剣を投げ入れて命からがら帰ってきた」

 とのこと。狭くて引き返せなかったはずの洞窟からどう脱出したのか、忠常の混乱ぶりがうかがえる証言だが、さらに話は続く。村の古老が現れて、

「人穴は浅間大菩薩の聖地で決して見てはならない場所。おお、なんと恐ろしいことを……」

 と、”それ、先に言ってよ~”な因縁を解説する実話怪談のド定番のようなおまけつきなのだ。

■呪われた洞窟探検。関係者に次々と悲惨な死が……

後々、伝説をもとに描かれた仁田忠常が人穴で遭遇した「霊神」の姿。この神罰で頼家も病に倒れた? :歌川国芳「仁田四郎忠常富士の人穴に入るの図」大英博物館所蔵

 実話怪談の定番的な展開なら、この後はどういうわけか全部事情を知っている(笑)、霊能パワー全開な寺や神社でお祓いするものの……というところ。

 しかし、なぜか『吾妻鏡』にはその後の忠常や頼家の動向が載っていない。同月10日の項まで記述はなく、ただあっさりと「(頼家が)駿河国から鎌倉に帰られた」とあるだけ。

 メチャクチャきな臭い感じだが、昔の人も同じように考えたようで、この事件を元ネタに数々の伝説・伝承が語られるようになる。

 長くなるのでここで詳細は触れないが、なかには『御伽草子』に「富士のひとあな物語」として収録されたものもあるのだ。

 こうした伝説が生まれた背景にはもう一つ理由がある。実は、この「呪われた洞窟探検」の関係者が次々と悲惨な最期を遂げていくのだ。

(ここから先は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のネタバレになる部分があるので、気になる方は2か月後ぐらいにお読みください)。

 まず「人穴の呪い」が発動したのは源頼家。源氏の守り本尊ともいうべき鶴岡八幡宮で次々と鳩が変死するという怪事が続き(注4)、洞窟探検の翌月、7月20日に頼家は急病で倒れ、尋常ではない苦痛に苛まれることになる。

注4/なかには首がちぎれて死んでいたなんてものも。鳩は八幡神(八幡大菩薩)の御使いとされるので、鳩の死=源氏に災いが起こる予兆とされる。

 23日には頼家の病状は悪化し危篤状態に陥り、祈祷の結果「霊神の祟り」と判明する。霊神、つまり古老が言っていた浅間大菩薩、あるいは仁田忠常が遭遇した「怪しい影」の祟りと考えて間違いない。

 

 頼家が祟りで倒れたことで忠常の運命もファイナル・デッドコースター並みの(笑)急降下を遂げる。頼家危篤という緊急事態で権力闘争が激化。9月2日には頼家の舅、比企能員(ひきよしかず/演・佐藤二朗)が北条時政(ほうじょうときまさ/演・坂東彌十郎)の命で謀殺される。

 この時、比企能員暗殺チームに選ばれた一人が忠常で見事、任務を果たすものの、3日後の9月5日、一時的に回復した頼家がこれを知り大激怒。

「おんどれ、なに俺の舅殿を殺してくれたんじゃ! ケツ搔いた時政殺してこんかい!!」

 と今度は北条時政暗殺の指令を忠常に下す。頼家の信頼篤い(ほんとか?)ものの、もともとは北条氏と繋がりの深い忠常は完全に板挟み。

 そして翌6日には「能員暗殺の褒美あげるよ」と呼び出された隙に弟2人は北条勢に殺され、自身も御所に向かったところで殺されてしまった。「呪われた洞窟探検」からわずか3カ月。用済みの殺し屋があっさり口封じされるような悲惨な最期を遂げることになったのだ。

 頼家も7日には出家して弟の千幡(後の実朝)に鎌倉殿の座を譲ることを強制され、伊豆・修善寺に幽閉される。さらに、翌元久元年(1204)7月には幽閉先で暗殺されることになる(注5)。なお、伊豆の洞窟を探検した和田胤長もこの9年後に流刑先で処刑とこれまた無残な死を迎える。

注5/『吾妻鏡』では「修善寺で亡くなられた」としか記していないが、『愚管抄』では「首に紐をつけ、ふぐりをとったりして殺した」(紐で首を絞めて、キンタマをにぎって殺した?)と、数人がかりで惨殺したと描写されている。

 

 ツタンカーメンも真っ青の「人穴の呪い」。その後、人穴は富士講など宗教上の聖地や巡礼地として長く崇拝されることになるのだが、この事件から約800年後、昭和に至って再び心霊スポットとして注目されることになる。そして、その怪異には後に世界中を震撼させる事件を起こした「ある新興宗教」が関わっているのだが、それはまた別の回でご紹介しよう。

 

参考文献
『現代語訳吾妻鏡(7)頼家と実朝』五味文彦・本郷和人[編]/吉川弘文館
『愚管抄 全現代語訳』慈円・大隅和雄[訳]/講談社学術文庫
『鎌倉武家事典』出雲隆/青蛙房
『鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史』島崎晋[著]/ワニブックス