■本来の一宮は氷川女體神社だった!?
武蔵国一宮を冠するのは大宮駅に近いさいたま市高鼻の氷川神社と先に書いたとおりだが、同じさいたま市宮本にある氷川女體神社もまた武蔵国一宮を冠している。神様の世界も実権を握るのは奥さんなのか? という冗談はさておき、実は、もともとの「氷川神社」はこちらだったという説があるのだ。
氷川女體神社の創建は、社伝によれば今から2000年ほど前の崇神天皇の頃。考古学や歴史学の世界では実際には8世紀頃ともされるが、氷川神社が創建される前から龍神/水神信仰が受け継がれてきた聖なる地だったという。つまり、もともと聖地とされていた場所に、出雲族がもともとの住民の信仰を取り込む形で「原・氷川神社」を創建。さらに後、現在の氷川神社(さいたま市高鼻)に移し、「原・氷川神社」は氷川女體神社に改称されたという筋立てだ。
■神の沼を望む岬に存在した祭祀場が源流か?
「いきなり”聖なる地”だなんて怪しいな」と思う方もいるだろうが、実は地形を見ると一目瞭然。氷川女體神社は、現在は一面平野となっている「見沼」を望む高台にあるが、古代には一面、広大な中海(数千年前には完全な海)となっていた見沼に突き出た岬の突端だった。
勘のいい方ならすでにピンと来ているだろう。「岬(みさき)」の「み」が古来「神(ミ)」を指すように「見沼(みぬま)」も本来は「神沼(ミ・ヌマ)」で神宿る沼と崇められていたのだ。神の沼を望む岬にある聖地、それが古代の氷川女體神社の姿だったと言えるだろう。
そして、氷川レイラインを巡る古代ミステリーはさらに時を遡ることになる。しかも縄文まで。
■氷川女體神社一帯は縄文時代の宗教センターだった!
氷川女體神社の隣、さいたま市三室(みむろ)には縄文時代の集落跡とされる「馬場小室山(ばんばおむろやま)遺跡」がある。研究によれば「縄文海進」と呼ばれ海が関東平野の内陸深くまで入り込んでいた紀元前4000年頃、「古東京湾」の海岸沿いにあったこの遺跡は地域の中心的集落だったとされる。
しかも、土偶や石剣、装身具など祭祀や呪術にまつわるような遺物が大量に出土しているというのだ。そもそも地名の三室も「ミ・ムロ」で「神の室」つまり神の居る所を匂わせるし、すぐ近くの岬には龍神や水神を祀る聖地で後の氷川女體神社もある。
となると、もはやこの一帯が縄文時代の宗教的な中心地だった可能性も出てくる。そして、数千年の間、綿々と続いた信仰を取り込む形で氷川神社や氷川レイラインが形成された可能性が高いのだ。冒頭で「なぜこんな辺境中の辺境に古代出雲族は~」と書いたが、こう考えるとここに重要な神社が築かれ、レイラインが形成されたのは必然だったと言える。