■20世紀初頭、インド・ネパール国境に現れた”魔獣”

射殺されたチャンパーワットの人喰い虎の頭部とされる写真。右上顎の犬歯(牙)は欠け、下顎の犬歯は左右とも失われているのがわかる

画像:Nihal Neerrad S, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 まずはこの写真をじっくり見てほしい。今にも襲い掛かりそうに牙を剥いた虎の頭部。だが、よく見ると下あごの牙は2本とも失われ、上あごの右犬歯(牙)も半ばで折れている。どう猛な顔つきとは裏腹な痛々しい様子だ。しかし、こんな傷ついた牙の持ち主こそが、20世紀初頭、少なくとも436人の命を奪った”魔獣”の首そのものなのだという。

 

「史上最悪の獣害」としギネスブック(97年版)にも掲載された魔獣の犠牲者が出始めたのは、多くの記録によると20世紀に入ったばかりの1900年頃だという。最初はネパール南部のタライ地方で、さらには国境を越えたインド北部のクマ―ウーン地方(現在のウッタラーカンド州東部)で、伝説のハンター、ジム・コーベットに撃ち取られる1907年までの間に、400人を超す現地住民を襲い、喰らったのだ。

 

■犠牲者の数は、実は軽く500人を越すとの説も!

タライ地方では虎は聖なる存在として信仰の対象だった。写真は虎を自在に使役したとされる行者

 しかも、最初の数年にネパールで餌食になった犠牲者は「おおよそ200人」とのこと。魔獣の故郷であるタライ地方にもネパール王国の支配は及んでいたが、現代のような行政システムは無し。広大な熱帯雨林と湿地帯が広がるエリアで正確な犠牲者数は把握できないのも当然だ。

 

 さらに、同地方では「聖なる獣である虎に喰われるのは神罰」という考え方があり、虎に襲われ喰われたなど身内の恥として報告されなかったケースも少なくないという。それゆえ、冒頭で「少なくとも」と但し書きを付けたわけで、研究者のなかには「犠牲者は軽く500人を越す」と考える者もいるという。

 

■魔獣の正体は体長2・5メートルの傷ついたベンガルトラ

時に同じ肉食獣の熊や豹まで捕食する、インド亜大陸最強の生物、ベンガルトラ

 こうして故郷のタライ地方からネパール西部の山岳地帯(注1)を経て、300キロ以上離れたインド・クマ―ウーン地方へと移動しながら次々と犠牲者を喰らっていった魔獣だが、その正体は体長2・5メートルほどのメスのベンガルトラだった。しかも、冒頭の写真のように手負いの個体だ。

注1/ネパール西端、国境を挟んでクマ―ウーン地方やチャンパーワットとは目と鼻の先のルパール村周辺で猛威を振るい、当時「ルパールの人喰い虎」の名で恐れられたという

 

 現在、バングラデシュからインド、ネパール、ブータンにかけて2600頭ほどが生息するベンガルトラ。体長2・4~3・1メートル、体重110~258キロ(注2)の巨体ながら、瞬間的に時速60キロを超えるスピードで襲いかかる俊敏性や、水牛の首を一撃でへし折るパワーも兼ね備えた、インド亜大陸における生態系の頂点に立つ「獣の王」だ。

注2/WWFジャパン発表のデータより(これを読めばトラ博士?! 絶滅危惧種トラの生態や亜種数は?

 

 実際、同じ生息域には「マイソールの人喰い熊」(注3)で知られる世界で最も狂暴なクマの一種ナマケグマや、記事の後半で紹介する「パナールの人喰い豹」で恐れられ現代でも獣害の報告が多い豹など、どう猛な肉食獣がひしめき合っているのだが、ベンガルトラは時にこれら猛獣も捕食するという、文字どおり「獣王」なのだ(しかし、冷静に考えるとこのエリア「人喰い」だらけだ……)

注3/1957年、インド南部・カルナータカ州第二の都市、マイソール(現・マイスール)で起こった「史上最悪の熊害」とも言われる事件とその”実行犯”とされるナマケグマ。少なくとも12人が殺され、犠牲者数でいえば日本の三毛別羆事件の倍近い被害だ。