栗の木は「実の子」を見分けて子育てする?
ところで、以前、 農場の経営者を取材したことがある。変わった人で、晩秋で寒い季節だったが、こちらがジャンパーを着こんでいるのアロハに短パン、サンダル履きで畑を歩いていた。薄着じゃないと土の声や野菜の声が聞こえないのだそうだ。
彼曰く、栗の木がガレージ脇に生えていたという。いわば親木で、その実から育った幼木がガレージの陰に生えていた。ただ奇妙なことに、日がまるで当たらないのに幼木は枯れずに育っている。何かおかしいと思った彼は、重機で土を掘り起こした。すると、驚いたことに親木から根が伸び、幼木につながっていたのだ!
「親木が幼木に栄養を与えて、育てている!?」
驚いた彼はこんな”実験“をしてみた。幼木を親木から切り離し、別の栗の木の苗と並べて植え、どうなるか観察したのだ。すると、栗の木は自分の幼木には栄養を与え、別の栗の木の幼木は無視したそうだ。あざといぞ、栗。
“実の子”にはこっそり与えて、近所に住んでる”よその子“には与えない──まるで人間社会のようだが、実は植物の世界では珍しい事ではないようだ。実際、森林では、高い木は自分が光合成した炭素の約40パーセントを幼木に分け与え、日陰でも成長できるように助けることが報告されている※7。植物は実を投げっぱなしではなく、ちゃんと“育児”をしていたのだ。
※7「Belowground carbon trade among tall trees in a temperate forest」(Tamir Klein SCIENCE 15 Apr 2016 Vol 352, Issue 6283 p342-344)
■植物は「ネットワーク型の意識」をもっている!
以上のことから、植物には原始的だが五感があり、さらに仲間を守り、高度な戦略で敵を撃退し、子どもを育てるといった“知的な行動”も行なうことがわかった。ここまでくると、植物が意識を持つ条件はそろっているのではないだろうか。では、植物に「意識」はあるのか? 植物学者のステファノ・マンクーゾは植物をサンゴやアリにたとえ、群れとして「集団知」を持っていると推測している(※8)。
※8『植物は〈未来〉を知っている』(ステファノ・マンクーゾ/訳:久保浩司 NHK出版)
集団知とは、1匹ずつがまるでひとつの脳細胞のように働き、群れ全体が脳のように意思を持つことだ。1匹をはるかに超えて、 群れ全体に意識があるかのようにふるまう。そして、マンクーゾはサンゴがサンゴ虫の集まりでできているように、ユニットが集まってできていると推測している。枝を切って土に植えると、すぐに切り口から根が出て、新しい苗になるのは、植物が独立したユニットの集まりだからだ。
ユニット=個には全体が含まれ、個の集まりは個の足し算を超えて、別の大きなルールを作り出す。一匹一匹のサンゴ虫はあの美しい樹形のサンゴ礁の姿を知らないが、集まると必然的にあの形を生み出す。植物もそうなのだろう。1本の草、1本の木が巨木となり、さらにつながって巨大な森を作り上げる。そして同時に1枚の葉、1本の枝の中に森が生きている。森全体が含まれている。
植物には脳はないが、動物とはまるで違う、インターネットのようなネットワーク型の意識を植物は持っているのかもしれない。こうした植物の、人間とはまったく違う生のあり方を知ると、意識とは何なのか、知性とは何なのか、不可思議に感じる。植物は私たちに問いかけているようだ。彼らは私たちに言うのだ。
「お前たちは知ったようなことをいう。ところで人間、お前たちが脳と呼ぶ、そこに本当に意識はあるのか? 脳にお前はいるのか? 今、本当はお前がお前の中の“どこ”にいるのか、知っているのか?」