■「記紀」で食い違う逸話の謎

古事記
寛永版本 古事記 國學院大學古事記学センター蔵 画像:しんぎんぐきゃっと, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

 これまで日本神話における神様たちのトンデモエピソードを紹介してきたが、ここで少し神話のエピソードから離れ、シリーズの第3回第5回前編で述べたように、『古事記』と『日本書紀』の違いについて解説したい。

 

 改めて確認すると、『古事記』は一貫した話の流れで構成されているのだが、『日本書紀』は本文とは別の説も多く載せている。また「記紀」では取り上げられる逸話やその描き方にも違いが多い。

 

 たとえば、アマテラスツクヨミスサノオのいわゆる「三貴神」は、『古事記』ではイザナギが顔を洗ったときに生まれたとしているが、『日本書紀』では第四段の一書(第十)で、イザナギとイザナミが国生みを終えたあとに、三柱の神を生んだと記されている。

 

 そのほかにも、連載第4回中編で紹介した、スサノオとアマテラスの「誓約(うけい)の場面でも、『古事記』はスサノオの剣から女神が生まれたとしているが、『日本書紀』では男神が生まれたとしているし、オオクニヌシ(オオナムチ)の「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)第6回前編を参照)などの逸話は『日本書紀』に記されていない。

 

 同じ日本神話を記した『古事記』と『日本書紀』で、なぜ、こうした食い違いが起こっているのだろう? あるいは、何らかの「狙い」があったのだろうか?

 

■物語性を重視した太安万侶と稗田阿礼

太安万侶

古事記の編纂者の一人、太安万侶。

画像: PD, via Wikimedia Commons

 内容が確認できる日本最古の書物とされ、712年に成立した『古事記』と、その8年後に完成した『日本書紀』は、ともに古代日本の神話と歴史を記録したものだ。ただし、その編纂方法には大きな違いがある。

 

『古事記』は天武天皇の命令を受けた大安万侶(おおやすのまろ)が、稗田阿礼(ひえだのあれ)という役人が話したものを書きとどめたものだ。稗田阿礼は28歳の青年で、一度読んだ書物をたちどころに覚えたという、ずば抜けた記憶力の持ち主だった。

 

 このように、『古事記』は2人の文人によってつくられた。内容は物語性を重視した「紀伝体」だ。

 

 ただ残念ながら、完成の前に天武天皇は崩御してしまい、献上されたのは三代後で天武天皇の姪にあたる元明天皇(※1)である。

※1 天武天皇の兄・天智天皇の娘で、天武の皇后だった持統天皇の妹で、さらに聖武天皇の祖母と、日本史の受験生泣かせなややこしい位置付け。

 

 

■正史作成のために結成されたチーム

天武天皇

『日本書紀』と『古事記』の編纂を命じた天武天皇。

画像:『集古十種』より「天武帝御影」/矢田山金剛寺 蔵
国書刊行会刊, PD, via Wikimedia Commons
 

 一方の『日本書紀』は、天武天皇の皇子・舎人親王(とねりしんのう)をリーダーとするチームによってつくられた。作成を命じたのは、やはり天武天皇である。

 

 実際の責任者は藤原不比等(ふじわらのふひと)。当時の実力者であり、現在放送されているNHK大河ドラマ「光る君へ」の登場人物、藤原道長(演・柄本佑)のご先祖さまだ。

 

 そして、かかわったメンバーの数も多い。その中には中国や朝鮮半島から渡って来た、渡来人も含まれていると考えられている。編纂方法も出来事を年代順にまとめる「編年体」を採用し、「一書」という異説をふんだんに紹介しているのが特徴だ。

 

 なお、この編年体という形式は中国の公的文書の書き方。つまり『日本書紀』は、当時のグローバルスタンダードにならった「正史(公式歴史書)」なのだ。

 

 

■海外向けの『日本書紀』と国内向けの『古事記』

元明天皇

完成した「記紀」が献上された元明天皇。

画像:三英舎刊『御歴代百廿一天皇御尊影』より , PD, via Wikimedia Commons

 このように、『古事記』も『日本書紀』も天武天皇が発案した事業であることから、作成のスタートはほぼ同時期だと考えられる。先に『古事記』が完成し、それを見て「こんなウソ臭い内容で歴史書といえるか!」との反感を買ったため、『日本書紀』がつくられたわけではない。

 

 ではなぜ、このような二つの方法で、別々の歴史書が編まれたのか?

 

 その理由については様々な説が取りざたされ、そのひとつは『古事記』が国内向けであるのに対し、『日本書紀』は海外向けの歴史書だったというものだ。

 

 そのため、『日本書紀』は当時の中国を中心とした東アジア圏の共通語だった「漢文」で記されているという。ただ、その反面、漢文を読む素養のない一般の日本人にとっては「チンプンカンブン(漢文)」な箇所もあるだろう。さらに異説も多いので、ストーリー本というよりもアーカイブに近い。

 

 それに対して『古事記』の表記は変体漢文(※2)。これなら日本人でも読みやすいし、物語に近いので読み進めるのもラクチンだ。

※2 漢文に倣って日本語の文章を漢字で表記したもの。ヤマト言葉(日本語)の音に漢字を当てはめているので、本来の漢文とはかなり異なる。

 

■今も昔も変わらないチーム事情

藤原不比等
『日本書紀』編纂チームの実質的ボス(?)藤原不比等の意向が反映されていたかも? 画像:Kingturtle, PD, via Wikimedia Commons

 太安万侶は稗田阿礼より年上だったとされているが、たぐいまれなる才能の持ち主である阿礼の話を信じ、敬愛の念すら持っていたかもしれない。それがたとえ荒唐無稽な話であっても、「まあ、阿礼のいうことだから」と丁寧に書き留める。安万侶と阿礼は、すぐれたコンビネーションを発揮したのだ。

 

 しかし、対外向けの正史となれば、仲良しこよしの関係で生み出されるものではない。

 

「この説はどうする?」

「一応載せておくけどさ、この資料には別の説もあるよ」

「じゃあ、一書で書き加えるということで……」

「因幡の兎って、ウサギがワニザメをだましたり、話をしたりするわけねえだろ」

「じゃあ、削除」

「ここはどうする? オオクニヌシが次から次へと女を変えるだなんて。いやしくも国津神のトップだぜ。上に怒られねえ?」

「じゃあ、これも削除」

 

 そんな話がなされているなかで、「わたしの国では、こんな話もありますよ」と渡来人が口を挟んだり、「わしは責任者として、この逸話は認めん!」と不比等がクレームをつけたり、場合によっては夜遅くまで会議が開かれたりということが無きにしも非ず。これは現在のプロジェクトチームと同じだ。

 

 製作スタートはほぼ同じでも、『日本書紀』の完成の時期が8年も遅れた理由も、そのあたりにあるのかもしれない。

 

【参考文献】
『日本の歴史 1 神話から歴史へ』
井上光貞・編集(中公文庫)
『東アジアの日本書紀 歴史書の誕生』遠藤慶太・著(吉川弘文館)
『記紀と古代史料の研究』荊木美行・著(国書刊行会)
『天皇の歴史 1 神話から歴史へ』大津透・著(講談社学術文庫)
『古事記:不思議な1300年史』斎藤英喜・著(新人物往来社)