■あなたは「ツタンカーメンの呪い」を覚えているか?

ギザのピラミッド
エジプトと言えばピラミッドだが「都市伝説的」には……。 画像:Ricardo Liberato, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons

 今年2024年3月にNHKスペシャルの新シリーズ「悠久のエジプト」が始まり(注1)、「ピラミッドに謎の空間発見」と一時期話題になったが、ピラミッドの謎以上に「古代エジプトのオカルトネタといえばコレ」という都市伝説があったのをご存じだろうか?

注1:2024年5月末現在では、なぜかプロローグのみの公開。続編が待たれるところ。

 

 令和育ちの世代はご存知ないかもしれないが、昭和の時代には「ツタンカーメン王の呪い」という都市伝説がまことしやかにささやかれていたのだ

悲劇の少年王として知られるツタンカーメン王のマスクは3000年の時を超え、ほぼ無傷で見つかった。

画像:Jerzy Strzelecki, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

 ツタンカーメン王といえば「黄金のマスク」で知られる、数々の伝説に彩られた悲劇の少年王。1922年にその墓が発掘されると、調査に関わった人物が次々と不審死を遂げ、その数はなんと22人(注2)。1930年までに調査隊関係者で生き残った者はたった一人だった。人々は王の墓を荒らしたものへの「ファラオの呪い」だと恐れおののいた──というもの。

 

 果たして、この昭和の都市伝説は真実だったのだろうか? まずは発掘の経緯から見ていこう。

 

関連写真/呪いの犠牲者たち【8枚】

 

■「世紀の発見」と騒がれた王墓の発掘

ハワード・カーター

世紀の発見を行なった考古学者ハワード・カーター。

画像:Chicago Daily News, Inc., photographer, Public domain, via Wikimedia Commons

「呪い」の発端は1922年11月4日のことだった。古代エジプト第18王朝のファラオ(紀元前1332年頃 〜紀元前1323年頃)であるツタンカーメン王の墓が英国の考古学者、ハワード・カーターによって発見された。

 

 古代エジプト史の謎に迫る世紀の発見として、カーターたちの偉業は世界中で称賛された。そして、発見から約2週間後の発掘式典は、調査を資金援助してきたカーターのパトロン、カーナヴォン伯ジョージ・ハーバートやその娘エブリンを始め、26人のメンバーやメディアが集まり華々しく行なわれた。

ツタンカーメン王墓の発掘現場
王墓発掘現場でのカーナヴォン伯(左)、娘のエブリン(中)、カーター(右)。 画像:Harry Burton (Photographer), Public domain, via Wikimedia Commons

 彼らが王墓の封印を開き内部へと歩み入ると、奇跡的に盗掘をほとんど免れたツタンカーメンの墓は、棺の周りが黄金の副葬品で埋め尽くされていたという。また、ほぼ無傷な状態で見つかった黄金のマスクは、世界中の注目を集め、現在でも古代エジプト文化を象徴するアイテムとして扱われている。

 

 だが、この発掘式典の直後から、カーターをはじめ調査隊の関係者には不穏な影が付きまとうようになる。

 

■カーターの自宅で異変。そしてカーナヴォン伯にも…

ジェームス・ブレステッド

アメリカ考古学会の大家だったジェームズ・ヘンリー・ブレステッドの奇っ怪な証言にエジプトは騒然となった。

画像:Public domain, via Wikimedia Commons

 最初の異変は、発掘直後にカーターと共に仕事をしていたアメリカの考古学者、ジェームズ・ヘンリー・ブレステッドが報告した。カーターの小間使いが鳥かごの中にコブラがとぐろを巻いているのを見つけ、その口にはカーターが飼っていたカナリアが咥えられていたという。

 

 コブラといえば古代エジプト王家の象徴。地元では「ファラオの呪いがすでにカーターの家にまで忍び込んでいる」と恐れられ、その様子が海を渡り、12月22日には米大手新聞、ニューヨーク・タイムズ紙が報じるまでの騒ぎになった。

マリー・コレリ

カーナヴォン伯に「呪われて死ぬ」と警告の手紙を送った小説家でオカルティストのマリー・コレリ。

画像:Public domain, via Wikimedia Commons

 だが、こんなものはただの「予兆(サイン)」に過ぎなかった。発掘まで多額の資金を提供した、最大の功労者といえるカーナヴォン卿が突然の不審死を遂げたのだ。しかも、死の2週間前、オカルト作家のマリー・コレリという人物からカーナヴォン伯宛に、

 

「封印された墓をあばいた者には『悲惨な罰』が下される」

 

という警告の手紙が送られていたというのだ。

 

■次々と関係者に訪れる「死の影」!

 カーナヴォン卿の変死を機に、次々と発掘関係者が不審死や不可解な災いに襲われた。「ツタンカーメンの呪い」伝説では、以下の人々が相次いで変死したとされている。

 

オーブリー・ハーバート(Aubrey Herbert)/1923年4月、敗血症で死亡

 カーナーヴォン伯の異母兄弟。エジプト学者でもあった兄とは違い、軍人、政治家、諜報員として活動していたが、兄・カーナヴォン伯の変死からわずか5カ月後に敗血症で急死。2人の相次ぐ死の原因として「ツタンカーメンの呪い」が囁かれたのだ。

 

ジョージ・ジェイ・グールド(George Jay Gould)/1923年5月、肺炎で死亡

 ジョージ・ジェイ・グールドは裕福なアメリカの資本家で鉄道幹部でもあったが、 1923年にツタンカーメンの墓を訪れ、その直後、謎の熱病に冒された。フランスに移動し治療にあたったものの、その甲斐なく肺炎を起こし死亡した。

 

ヒュー・G・エブリン=ホワイト(Hugh G Evelyn-White)/1924年9月、自殺

 ツタンカーメン王の墓を発見したハワード・カーターの考古学者チームのメンバー。将来を嘱望された若手の考古学者だったが、都市伝説によれば、発掘関係者の相次ぐ変死にパニックになり、自らの血で「私は呪いの力に負けた」と書き残し、首を吊ったという。

 

アーロン・エンバー(Aron Ember)/1926年6月、焼死

 アメリカのエジプト学者アーロン・エンバーは自宅の火災で不慮の死を遂げた。自宅は全焼し、8歳の息子、彼を助けようとしたエンバーの妻、メイド、そして、10年かけた大著の原稿を取りに戻ったエンバーの4人全員が亡くなったのだ。エンバーの原稿のタイトルは「エジプトの死者の書」だったという。

 

アーサー・C・メイス(Athur C Mace)/1928年4月、胸膜炎と肺炎により死亡

 イギリス出身の考古学者。ニューヨークのメトロポリタン美術館から派遣され、カーターの発掘隊のメンバーとして出土品の整理に当たっていたが、1924年の春には健康上の理由でエジプトを離れ、後にその時の病が原因で亡くなったとされる。

 

リチャード・ベセル(Richard Bethell)/1929年11月、窒息死

 ベセルはカーナーヴォン伯の秘書であり、カーターに次いで墓に入った最初の人物だった。彼は1929年にロンドンのエリート紳士クラブの自室で窒息死しているのが発見された。事件当時、マスコミは「リチャード・ベセルの自宅で謎の火災が起き、そこには貴重なツタンカーメンの墓から出土したものが保管されていた」と報道した。

 

呪われた人々の写真は最終ページで