■「非情な乱世の覇王」は虚像だった?
織田信長といえば、これまでどんなイメージを付けられてきただろうか? 古い権威を真っ向から否定し、新しき世を目指した革命児。そして敵対者は足利将軍や天皇だろうと容赦せず、幕府すらも滅ぼした非情な乱世の覇王。このようなイメージが、ゲームや漫画、歴史ドラマなど様々な媒体で再生産され続けてきた。
ただし、こうした手垢のついた信長像を日本史の専門家に語ったら、鼻で笑われるだろう。軍事・経済の革新的施策は、後世の記録である「軍記」や読み物として創作された「軍記物語」のでっちあげか前例ありきのもので、ちっとも先進的ではなかったのだから。そんな誤解は、朝廷との関係にもある。
これまで、信長にとって天皇は単なる権威拡大の道具でしかないとされていた。だが、実際はまったくの逆。軽視どころか、天皇を重んじる尊王家だったのだ。
■【通説のウラ①】実は天皇と大の仲良し?
信長が天皇や朝廷に対して行った有名な悪行といえば、
「東大寺の正倉院に納められていた香木の蘭奢待(らんじゃたい)を強引に切り取る」
「安土城の天守から見下ろせる屋敷への天皇移住を計画した」
「都合のいい皇子を天皇にすべく、正親町天皇に譲位を迫った」
だろうか。ただし、最新の研究によれば、そのすべては否定されている。
1568年(永禄11)、足利義昭を通じて上洛した信長が真っ先に取り組んだのは都の治安回復だ。このほかにも朝廷への多額の献金、儀式の復興や御所の修繕、公家や天皇の領地回復を進めて、朝廷の権威復活を後押しした。本当に天皇が邪魔なのなら、逆に力を削ぐように動くはずだ。先に挙げた悪行も実際は、
「穏便に天皇から許可を貰い、できるかぎり前例に従い紳士的に切り取った」
「ただの行幸用の屋敷で、場所も当時の感覚では問題なし」
「朝廷復権の一環であって、院政復活を望んだ朝廷側も歓迎していた」
となっている。また信長は官職就任の要請をたびたび蹴っているが、これも戦争続きで余裕がなかったからだという。
上洛以降の信長は足利将軍や天皇の権威を後ろ盾にしていたので、天皇が偉くなくなれば自分もダメージを受けてしまう。ゆえに天皇との繋がりを大事にしていたのだ。
■【通説のウラ②】意外とお人好しだった信長
そんな信長は、部下や親族にも甘々であった。それはもう、謀反をされても一度は許すほどに。
1553年(天文22)に弟の信勝(のぶかつ)が反乱を起こせば、母親の説得もあって無罪放免とした(ただし、5年後に再反乱を察知し暗殺)。1572年(元亀3)に松永久秀(まつながひさひで)が裏切ったときも、一度許したばかりか、5年後に再び謀反を起こしても、最初は話し合いでの解決を試していた。もっとも、使者を拒絶されたせいで、やむなく軍での鎮圧を実行してはいるが。
信長といえば情け容赦ないイメージが強いので、なんとも意外な一面だろう。
実のところ、現在の信長像は「人を信用しすぎるお人好し」と呼ばれやすい。尾張の小大名から急拡大したせいで、織田家は常に人手不足だった。ブラックな態度を続けたら、あっという間に部下は上司から逃げる。寝返り・下剋上(げこくじょう)が当たり前の戦国時代ならなおさらだ。ゆえに信長はホワイトな対応を心掛け、部下や同盟相手にも信頼を寄せていたようだ。
■善人過ぎて一番厄介なタイプ?
ただし、裏切りが相次いだのはそのせいだともいわれる。つまり、信じすぎて相手への警戒心が薄かったのだ。一方で、信長は、
「自分が相手を信用しているんだから、相手も自分を信じてくれるはず」
と思いこみ、独善的な態度を取ることも多かった。当初は関係が良好だった将軍足利義昭との仲がこじれたのも、義昭の私生活や政務の乱れをしつこく注意したことが一因であるという。
つまり信長は、自分をホワイトだと思い込んでいるものの、周りにしてみれば善意を押し付けてくるブラック大名だったともいえる。信長は革命的な魔王ではなかったが、自身の善意を過信しすぎる、最も厄介なタイプの善人だったのかもしれない。
『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』日本史資料研究会・編(洋泉社歴史新書)
『織田信長 〈天下人〉の実像』金子拓・著(講談社現代新書)
『戦国武将、虚像と実像』呉座勇一・著(角川新書)
『天皇の歴史5 天皇と天下人』藤井讓治・著(講談社学術文庫)