■歓楽街に鎮座する綱敷天神社の本社
綱敷天神社は平安時代初期の882年(弘仁13)に嵯峨天皇(さがてんのう)が当地に御行幸した際、構えた頓宮(注1)に由来。843年には、嵯峨天皇の皇子である源融(みなもとのとおる)が天皇を祀る神野太神宮を頓宮跡に創建し、これを網敷天神社の前身とする。なお、歯神社に関する社務を綱敷天神社(本社)では扱っていないので、ご注意を。
注1/とんぐう。天皇の仮の宮殿のこと。行在所(あんざいしょ)とも。
その綱敷天神社へ向かうため、御旅社のある茶屋町から歯神社の角田町を経由して神山町へ。すると、徐々に街の雰囲気が変化していくのに気が付く。
歯神社へ至るショッピングモールのESTは、若い女性向けの店舗が多く、おじさんが足を踏み入れると気恥ずかしくなるほどキラキラした雰囲気に満ちている。ESTの近くには「HEP NAVIO」や「HEP FIVE」といった、やはりカラフルなイメージの商業施設が多い。
綱敷天神社御旅社の鎮座する茶屋町は、1980年代後半の再開発によって大きく街の様子が変わったエリア。ここも若者向きの街だと言えるだろう。
片や綱敷天神社の鎮座する神山町や近接の堂山町は、歓楽街であり風俗街でもありラブホテル街も近い、オヤジたちの聖地ともいえる場所なのだ。
大阪の二大繁華街の一つで梅田を中心とする「キタ」は、もう一方の「ミナミ」よりも洗練されたイメージが持たれやすい。たしかに歯神社と御旅社があるエリアは、オシャレできちんと整えられた町並みという印象が強い。
しかし、綱敷天神社のある界隈は、夜になるとネオンの瞬く、欲望が剥き出しになった猥雑な街だ。同じキタであっても、まったくといっていいほど異なる面がある。そんな多様性も見えてくる。
■人骨を「埋めた」墓地があった梅田
なお、「梅田」という地名は、土地開発のために田畑を埋めた「埋田(うめだ)」から、もしくは湿地帯を「埋めた」に由来するとされる。すなわち、大阪駅が開業するまで、梅田は寂れた場所でしかなかった。また梅田には、土地以外にも埋められたものがある。
かつての梅田には「大坂七墓」のひとつに数えられる大規模墓地があり、多くの墓は別の墓地に移設されたが、無縁仏は大半が放置されたまま。実際、2020年には、JR大阪駅の再開発地区で多数の人骨が出土。その数は1500体以上にものぼり、江戸時代から明治までに埋葬された骨とみられている。そのため梅田の地下には、今もかなりの人骨が「埋まって」いるといわれている。