現在のアメリカ合衆国の歴史は、スペイン、イギリス、フランスなどヨーロッパ諸国による植民地化によって始まった。アメリカの公用語は英語であり、イギリスが建設した最初の永続的植民地は1607年、105名の入植者が送り込まれたバージニア州にある「ジェームズタウン」であることは、よく知られている。
しかし、その20年前の1585年にイギリス最初の植民団として送り込まれた「ロアノーク植民地」のメンバーは忽然と姿を消してしまった。この「消えた入植者たち」はどこにいってしまったのか、アメリカの歴史の中で大きな謎となっているのだ。
■伝説の探検家が企画した植民計画
まず当時の時代背景を見ていこう。16世紀後半、スペインはすでに中米から南米にかけて広大な植民地を築いており、ヨーロッパで富と影響力を誇っていた。これに対抗すべく、イギリスは北米大陸への進出を画策していた。
1585年春、イギリス貴族で後に伝説の黄金郷「エル・ドラード」遠征隊で知られる探検家、ウォルター・ローリー卿が北米大陸の東海岸に植民地の建設を計画。当時のエリザベス女王から勅許を得て、従兄弟のリチャード・グレンビルをリーダーとして植民団を派遣した(※1)。
※1 正確には前年の1584年に現在のノースカロライナ州沿岸に派遣。調査を行なっている。
植民団は同年6月ごろ、北米大陸の東海岸に到達。こうして、彼らが植民地を建設したのが、現在のノースカロライナ州に位置するロアノーク島だった。しかし、食料や物資の不足、先住民との関係悪化など多くの困難に直面。約1年ほどで植民者たちはイギリスへ帰ってしまった。
■赤ちゃんを含め忽然と消えた植民者たち
1587年、ローリー卿は古くからの友人で画家でもあるジョン・ホワイトをリーダーとする新たな植民団を派遣。ロアノーク島での植民地建設を再度試みた。
同年7月、ホワイトの妊娠中の娘夫婦を含む117名がロアノーク島に到着。翌8月には「アメリカ大陸で生まれた最初のイギリス人」として知られる、ホワイトの孫娘、ヴァージニア・デアが誕生。ロアノーク植民地は喜びと希望に溢れていた。
だが、ロアノーク島にはすぐ暗雲が立ち込める。そもそも第一次植民団が「銀のコップを盗まれた」と疑いをかけ、先住民の集落を襲撃。族長を火あぶりにするなど乱暴狼藉を働いたせいで、先住民との関係は最悪の状態だった。
ホワイトらは関係改善を図ったが、遂に悲劇が起こる。植民者の一人、ジョージ・ハウがカニ漁の最中に先住民に射殺されてしまったのだ。これにより入植者のあいだで不安と緊張が高まる。
さらに再び食料や物資も不足し、ホワイトはイギリスへ戻り救援部隊を要請することになった。彼は娘と孫娘を含め115名の入植者を残してイギリスに戻ったが、スペインとの英西戦争(1885~1604年)が原因で予定が遅れてしまい、再びロアノーク島に到着できたのは、なんと3年後の1590年だった。
船から見ると煙が上がっているように見えたが、ロアノーク島に到着すると植民地は完全に無人となっていた。入植者は跡形もなく姿を消し、家屋や防御用の工作物まで、すべて解体されていた。
真っ先に先住民とのトラブルが疑われたが、奇妙なことに戦闘が行なわれたような形跡もなかったという。