■優しさが致命的な欠点だった?
一方で、五十六が人格者だったことを示すエピソードは事欠かない。
ガダルカナル戦では友軍の出撃を常に見送り、戦死者の名前は手帳に記録して己への戒めにしたという。作戦参謀の三和義勇(みわよしたけ)少将や第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)中将のように、五十六に尊敬の念を抱く将校も少なくはなく、多くの人達に慕われる善人だったことは間違いない。
ただし、善意や善行が必ずしも良き結果に繋がるとは限らないように、五十六の優しさが害を及ぼすこともまたあった。その典型例がミッドウェー海戦の事後処理だ。
主力空母4隻を失った海戦の後、五十六は機動部隊の首脳をだれも罰しなかった。それだけならまだしも、敗因を探求する研究会すら開かなかったのだ。
「皆が十分反省し、非を認めているんだから鞭打つ必要はない」
というのが、五十六の言い分だったという。情に深い五十六らしいが、敗因研究すらしないのは、さすがに甘いというほかない。
■無口でコミュ障だった一面も
さらに五十六は子どものころより無口な性格だった。一握りの友人にしか心は開かず、「自分が思うなら相手も思うはず」と思い込み、意見が違うと早々に説得を諦める癖もあったようだ。
これは将軍時代でも変わらず、部下もたびたび振り回されたようだ。航空参謀の佐々木彰(ささきあきら)中佐は「一部の幕僚にしか真意を説明しない」と戦後発言しているし、第一次ソロモン海海戦では、当然、輸送船団も攻撃すると思い込んで突入命令を出さなかったと、専務参謀の渡辺安次(わたなべやすじ)中佐も証言している。
真珠湾攻撃やミッドウェー作戦で軍令部との意思疎通が食い違ったのも、言葉を尽くした説明を嫌がる五十六の性格にも問題があるとする説もある。
つまり五十六は、今でいう「コミュ障」でもあったのだろう。それも作戦計画に大なり小なり支障をきたすほどに。
名将と呼ばれる山本五十六とて、完璧な戦略家でもなければ、聖人君主でもない。過ちも犯せば甘さもある、我々と同じ人間だったのだ。
『「太平洋の巨鷲」山本五十六 用兵思想からみた真価』大木毅(KADOKAWA)
『米内光政と山本五十六は愚将だった 「海軍善玉論」の虚妄を糺す』三村文男(テーミス)
『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』笠原十九司(平凡社)