■始まりは疫病退散のための神社
身分の低い女性が高貴な男性に嫁ぐことを、「玉の輿に乗る」という。現在では裕福な男性と結ばれることをいい、ひとむかし前には一般的な男性が金持ちの女性と結婚する「逆玉」という言葉もあった。しかし、ジェンダーフリーの考えが浸透しつつある昨今、もはや逆玉は死語といえるかもしれない。
それはともかく、男女を問わず、結婚でワンランク上の生活を望む人は確実にいる。そんな人たちにご利益のあるのが、京都市北区の紫野にある今宮神社だ。
今宮神社の創建は1001(長保3)年。船岡山に祀られていた疫神を、現在地に移したのをはじまりとする。祭神は、事代主命(ことしろぬしのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の3柱。本社の左には「疫社」という摂社があり、こちらは素盞嗚尊(すさのをのみこと)を祀っている。
この疫社は平安遷都以前から存在し、平安時代になって疫病が流行ると鎮静のための御霊会(ごりょうえ)が行なわれた。御霊会とは不遇の死を遂げた者の御霊を慰めるもので、当時、疫病は恨みを抱いて亡くなった者の祟りだと信じられていた。つまり、そもそも今宮神社は、疫病退散を目的とした神社なのだ。
■「玉の輿」の語源となった桂昌院
そんな今宮神社が、なぜ「玉の輿神社」とまで呼ばれるようになったのか? その理由は、江戸時代初期のとある女性にある。
「玉の輿」の語源については諸説あるが、ひとつは京都・西陣の八百屋の娘だった「お玉」が三代将軍徳川家光の側室となり、徳松(後の綱吉)の生母になったことを由来とする。家光が没するとお玉は仏門に入って桂昌院と称し、綱吉が五代将軍に就任すると桂昌院には女性としては最高位の従一位の官位を与えられた。
西陣を故郷とする桂昌院は、自らの産土神(うぶすながみ 注1)でありながら荒廃していた今宮神社の姿を嘆き、社殿を造営・修復。神領を寄進するなどして再興を果たしたのだ。
注1 生まれた土地の神で生涯にわたり守護してくれる存在とされた。
今宮神社は桂昌院を「中興の祖」として称え、2008年にはレリーフも設置された。また、桂昌院にあやかるための「玉の輿守」も授与されている。桂昌院の功績で、本来とは異なるご利益も付与されたわけだ。