■リアル暴れん坊は宗春だった!?
そもそも吉宗は1716(享保元)年に、わずか6歳で死去した家継の後を受けて将軍になっている。このとき将軍の座を争ったのが、御三家筆頭の尾張徳川6代藩主の継友だ。
吉宗は、家継の父である家宣の正室・天英院を筆頭とする大奥や幕臣の支持を得て将軍に就任するものの、継嗣問題以降、将軍家と尾張家の確執は深まる。さらに宗春は継友の弟だったので、もし継友が将軍になっていれば、将軍の座が回ってくる可能性もあった。
ただ吉宗への反発は私憤だけでなく、宗春なりの考えがあったようだ。それは、消費で経済を刺激し、町を活性化させ庶民に潤いを与えるというもの。つまり、吉宗が進めた緊縮財政とは別の方向性で経済を活性化させようとしたのだ。
宗春は名古屋城下での遊郭も芝居小屋も許可。自らも派手な装いで城下に繰り出し、芝居見物をし、外食を繰り返す。参勤交代で江戸のいたときも吉原遊郭に通い、太夫を身請けしてしまうほどだった。
そんな行動に対して吉宗は激怒し、宗春を詰問するも「借金もしていないし、領民を苦しめてもいない」と、宗春は悪びれた様子も見せなかったという。
■宗春を蟄居させたものの…
吉宗の改革は幕府の財政立て直しには成功した。しかし、庶民を苦しめる結果となり、順調に増え続けていた日本の人口も享保の改革を境に停滞もしくは減少している。一揆も続発し、これらは過酷な年貢の取立てが原因とも考えられている。
つまり、幕府内だけでなく全国に視野を広げれば、吉宗の経済政策は失敗だったのだ。
一方の宗春はというと、1739(元文四)年に幕府から隠居のうえ蟄居謹慎を命じられた。江戸時代の税制はコメによる年貢が基本なので、いくら町が活性化しても藩や幕府が大いに潤うことはない。そのため尾張藩の財政は破綻寸前まで追い込まれてしまい、宗春はその責を負ったのだ。
1764(明和元)年に没するまで、宗春は名古屋城三の丸から外出することを一切禁じられた。だが、吉宗は蟄居している宗春のことを気遣い、「不足はないか」「不自由はないか」とおもんばかる書状を送っていた。
財政再建に奔走せざるを得ず、常に改革のことを考えていたであろう徳川吉宗。実のところ、藩主という身分でありながら遊興三昧だった宗春のことが、うらやましかったのかもしれない。