日中戦争から太平洋戦争、そして敗戦へ日本を引きずり込んだ陸軍に対し、常に開戦に異を唱えつづけた海軍──いわゆる「陸軍悪玉/海軍善玉論」で、開明的でリベラルな海軍軍人の代表とされる米内光政(よないみつまさ)。海外の事情に通じ、ロシア文学を愛する読書家で温厚篤実な性格、部下から昭和天皇まで信頼の厚かった人物などと描かれることが多い米内だが、その実像は……。

 

■対米戦争に反対した海軍三羽烏

米内光政と山本五十六

ともに連合艦隊長官であり、対米開戦に反対した米内(左)と山本五十六

画像:Public Domain via Wikimedia Commons

 日独伊三国同盟と対米戦争の開戦に反対し、山本五十六、井上成美(いのうえしげよし)とともに「海軍三羽烏」と呼ばれたのが米内光政だ。

 

 海軍兵学校卒業時の成績は125人中68位と低く、同期からは「グズ政」とあだ名された米内だったが、人一倍勤勉で、無口で心優しい性格は多くの部下から慕われていた。

 

 一度は総理大臣に就任したが、陸軍の策略によりわずか半年で総辞職を余儀なくされ、大戦後期は日米終戦に奔走した──これが通説上の米内光政だ。

 

米内と部下たち

米内(写真前列中央)は海軍内では部下に慕われる人格者でもあったが……。

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 米内に先見の明があったのは間違いない。ただし、米内のそれは対米戦略のみに限定さたものだった。つまり、それ以外の国には致命的な読み違いを犯していた。

 

 米内が見誤った国というのは、中国とソ連だった。そして両国への戦略に関わったせいで、国を間違った方向に導くことすらあったのである。

 

 

■対中国最強硬派だった米内

 

盧溝橋事件の中国兵

盧溝橋事件で日本軍と対峙する中国兵たち。

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 1937(昭和12)年7月7日、中国北京郊外の盧溝橋で日中両軍の武力衝突が起きた。「盧溝橋事件」と呼ばれるこの紛争で、海軍大臣だった米内は事件の不拡大を支持している。ところが8月14日の閣議では、不拡大方針の放棄を主張したのである。

 

全面戦争と首都南京の占領すら訴える強気ぶりは、翌日の拝謁で昭和天皇に「感情に走らず、大局を見て誤りを起こさないように」とたしなめられるほどだったという。

 

 米内が中国にかたくなになったのは、上海市内を視察中の大山勇夫中尉が中国人に射殺された同年8月9日の大山事件や14日の軍艦「出雲」への爆撃への怒り、そして海軍における中国軽視の表れだとされる。

 

 

日米開戦の遠因を自ら招いた?

 

近衛内閣

米内(後列左から3人目)は近衛内閣で海軍大臣を務め対中強硬路線を推し進めた。

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 さらに1938(昭和13)年、盧溝橋事件を端緒とする日中戦争の最中に出された「近衛声明」(詳細は連載第8回を参照)を後押ししたメンバーにも米内はいた。

 

 当時、近衛内閣の海相だった米内は、陸軍を中心に水面下で進んでいた和平交渉の打ち切りを主張。同年1月15日の連絡会議では、早期終戦を求めたのは、むしろ軍部のほうだったのだ。

 

「日本の国力だと長期戦は無理だ」

 

 そんな発言をする陸軍参謀本部や海軍軍令部に、米内はこう言い放つ。

 

「統帥部(軍部)は外務大臣を信用しないのか。なら、政府不信任で内閣総辞職しかないな」

 

 政府の混乱を盾にした脅しである。米内らの強気に軍は折れ、政府から「国民党を対手とせず」という発言(近衛声明の一部)が出されてしまった。

 

 まさに米内や海軍の軽率な行動が中国との戦いを泥沼化させ、中国利権の喪失を危惧したアメリカの関与を促す結果となる。結果的に米内は、自らがもっとも恐れた日米戦争の引き金を、己の手で引いてしまうことになったのである。