●実は諦めていなかった!? 幻の「横浜襲撃第二テロ計画」
さて、テロ計画の首謀者だった渋沢と従兄弟の喜作は11月のアタマに慌てて故郷・血洗島を脱出し、一路江戸へ。テロ計画は中止となったのだから、慌てず事後処理をしてから出発すればいいものを、なぜバタバタと旅立ったのか?
実は、渋沢たちの計画がストップした背後で、別のテロ計画、いわば「横浜襲撃第二テロ計画」が進んでいたのだった!
しかも、決行日は同じ11月12日、第二計画では赤城山麓で決起して沼田城を襲撃、同じく鎌倉街道を南下して一挙、横浜外国人居留地を火の海とするというもの。しかもしかも、首謀者で農民出身の儒学者・桃井可堂は血洗島の隣、北阿賀野村の出身だった(事件当時の居住地はさらに隣の中瀬村)。
●第二テログループと密談していた渋沢たち
ほぼ同じ目的、攻撃ルートで、後の記録を見ても、渋沢たちが「慷慨(こうがい)組」、桃井たちが「天朝(てんちょう)組」と二つ一組で呼ばれていたことからも、何らかの連動が疑われるのは当然。実際、桃井の日記には渋沢や尾高淳忠と何度も会っていたことが記されている。さらに渋沢や尾高たちが、自分たちの計画がもし発覚したり頓挫した時には、この第二テロ計画が実行されることを狙っていた節があるのだ。
だからこそ、決行日の12日になる前に慌てて故郷を離れ、日本中から攘夷志士の集まる京都へ向かい、第二テロ計画の後方支援を狙っていた可能性は十分ありうる。つまり、渋沢はテロ計画を諦めていなかった恐れがあるのだ。
なお、桃井たちの計画はトラブルや裏切りが相次ぎ頓挫。桃井の自首と絶食による自死という悲劇的結末を迎えた。しかし、この第二テロ計画や桃井について、渋沢の自伝では一切触れられていない。むしろ、渋沢自身が口を噤まざるを得ない、なんらかの裏があったのかもしれない……。
参考資料
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』(渋沢栄一記念財団)
『渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄)』(渋沢栄一/角川ソフィア文庫)
『幕末武州の青年群像』(岩上進/さきたま出版会)