●次から次へと愛人を自宅へ……仲良き事は美しき哉?

 妻公認のお妾さんたち3人にはなかなか面白いエピソードがある。まず最初の一人、大内くに。渋沢が大蔵省に在職中、造幣局へ単身赴任していた大阪で出会った女性だ。もともと幕府の女官だったとも、京都にいた幕府の役人の妻だったともいわれる。維新後、大阪で料亭の女中をしているところを見初められ渋沢と”大人の関係”に……。

 しかも渋沢は豪胆なことに、単身赴任が終わると千代と娘が暮らす東京の家にくにを連れ帰る。現代の感覚ではとんでもない話だが、当時は「妻妾同居」は珍しいことではない。ただ、長年家を空けっぱなしでやっと一緒に暮らせると思ったら「家族が一人増えました(しかも美女が)」では、千代も内心たまったものではなかっただろう。とはいえ、千代の度量がよほど広かったのか、妻妾息が合ったのか、くにが生んだ二人の娘ともども仲良く暮らしたようだ。

 どうも渋沢は大阪の女が好みだったのか、後に二人目の妾として迎えた田中久尾も大阪出身。こちらもやはり妻妾同居で、1876年(明治9)の夏から暮らしていた深川福住町(現在の門前仲町)の渋沢邸で共に生活していたことが分かっている。

 

●明治時代の”文春砲”に愛の巣をすっぱ抜かれる!?

 

 なぜこんな細かいことまでわかっているかと言うと、実は当時の新聞にすっぱ抜かれていたのだ。政界・財界のスキャンダルを暴き出し”まむしの周六”と恐れられた、黒岩涙香が主筆を務める「萬朝報(よろずちょうほう)」がそれ。同紙の連載「弊風ー斑蓄妾の実例」は、伊藤博文から森鴎外、今では名も知らぬ人々まで手当たり次第に妾との関係や現住所まで(!)暴露するスキャンダル記事。いわば”明治の文春砲”とでもいうところ。そして、ここに我らが資本主義の父の名もあった。

 記事によれば、田中久尾は歳の頃28~29歳(記事掲載の1898年当時)で、「大阪より連れきたりし」「古き妾(ひどい書きようw)」で「深川福住町四番地で同居」とある(但し、伝記資料によれば記事掲載当時の自宅は兜町二番地だったらしい)。千代は1882年(明治15)に亡くなっているので、久尾と同居していたのは後妻の兼子だろう。この兼子夫人、後に渋沢の女癖についてキツ~イ名言(?)を放っているので、当時も思うところはあっただろう。

 さらに、この記事にはもう一人、同時並行で愛の巣を構えていた女性についても暴露されている。それが3人目の妾、鈴木かめ(24歳)。もともとは元吉原仲の町の置屋・林家の芸者、小亀だったのを身請けし、日本橋浜町三番地(現在の浜町、明治座の裏あたり)の別宅に住まわせていたという。ちなみに先述の68歳で子どもを授かったのが彼女との間。かめ34歳頃のことだ。

 このかめとの愛の巣が、よく渋沢の艶聞エピソードで語られる「浜町の友人の家」と推測される。手短にまとめると、ある晩、部下が会社の一大事を急ぎ渋沢に伝えようと、浜町にある「友人の家」を訪ねたところ、家の奥から「渋沢がこんな場所にいるはずがありません、と伝えなさい!」と大声で居留守を指示する声が響いたという話。自分で構えた愛の巣を「こんなところ」とはずいぶんな言いざまだが、よほど慌てていたのだろう。こんな人間臭い部分も、渋沢の魅力というべきか……。